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2022年度大河ドラマ 第18回 感想メモ

今回は三つに絞ってメモしていきますね!相変わらず取り止めがないです。

 

■生きている人間のための物語

今回、切れ味鋭い画面だったと思います。戦術を考えるシーンが多く、実際の戦闘シーンはやはり小ぶり(予算の関係というより制作側の趣味だと思います)でした。しかし、小ぶりだからといって油断は大敵です。
あのハイクオリティーのCG は言語を絶します。すごい。大河ドラマのオープニングを全て3DCGで表現したのは「北条時宗」で、その時のCGと比べると格段に違和感がありません。戦闘シーンのどこがCGだかまったくわからず、Twitterでそこだあそこだと教えていただきました。
時宗のCGもすごいと賞賛されていたそうなので、これは人類の進化の証といえるでしょう。
小ぶりなのに壮大でかっこよかった。

ずっと疑問に思っていたことがあります。

どうして一ノ谷で捕まった重衡が出ないのだろう。知盛は父の遺言を一心に源氏に挑む好戦的な人として出ましたが、その死は書いていません。維盛も富士川の戦いで「逃げ帰った」のではなくその場にとどまって冷静に状況確認していたほど肝の据わった好人物として書かれていたのに、補陀落渡海するのは書きませんでした。

平家の悲劇の象徴として出てくるのは生き残った宗盛とその息子の清宗です。

ここでこの物語の「殺された人」に焦点を当ててみると、「死ぬなんて30分前は考えもしなかった人」「生きようと思っていた人」です。伊東祐親親子も、「切腹した」とはなりましたが実際のところ頼朝から罪が許されるはずだと信じていたでしょうし、上総広常も自分が殺されるなんて思ってもいませんでした。義高はいっときはやけになっていましたが、父の手紙を読んで生きたいと思い直しました。藤内光澄などは、自分の将来の栄達さえ信じていました。

この物語では、頼朝に残酷な振る舞いをされて死にたがっていた八重さんは醜く、今のはつらつと明るく生きている八重さんは美しく書かれているように、「生きようと願っている人間こそ」と映したいのでしょう。

だから、「弓馬に携わる之者、敵の為に虜え被るはあながち恥辱に非ず。早く斬罪に所被るべし(武将は敵に捉えられるのはさほど恥ずかしいことではない。早く斬首にしろ)」と言い放った重衡のように、「死を覚悟している人間」の死に様は書かないのでしょう。なぜなら重衡は鎌倉に連れてこられた時点で「死んでいる」のですから。魂はもう来世へと旅立ち、肉体だけが生きている死人になってしまっているのです。

ほかの平家の人々も、すでに義経に攻め込まれた時点で生を諦めた(=死んだ)ので、描かないのでしょう。維盛も。恵まれた容姿と素晴らしい人格を持っていたのにもかかわらず、生きることを諦めてしまった。

肉体は生きているが、魂は来世へと旅立っている人々のなかで、宗盛だけは、清宗への父としての愛が現世と自分を結びつける一つの糸となりました。

そして一族の罪を背負って死んでいくのです。おそらく宗盛の肉体の死に様も描かれないでしょう。すでに宗盛はこの18回の最後、清宗と再会したシーンで「死んだ」のですから。

蛇足ですが、いずれメモしていきたいのですけど、この物語は「生きている人たちの物語」であると同時に「手を汚している人への物語」でもあると思っています。

 

■天才は天才のまま殺したい。

梶原景時義経排除に乗り出しました。一見、嫉妬に狂った男が頼朝に讒言した末の暴挙に見えます。ところが、景時は意味深な言葉を義時に漏らしています。

「そなたも、戦場での九郎殿の様子を見たであろう」
「見ました」
「あのお方は、天に選ばれたお方。鎌倉殿も同じだ。二人とも、己の信じた道を行くのに手を選ばぬ。そのようなお二人が、並び立つはずはない」

今までの二人を見ればわかりきったことです。頼朝も義経も「最善の到着点へ最短の道で行くことに長けている」人間。
義経は特にその様が顕著に描かれていますが、頼朝も前代未聞の「武家政権」を挙兵からたったの五年で作り上げようとしています*1。そして、足利尊氏鎌倉幕府を滅亡させてその衣鉢を受け継ぐのに五年、しかし二十年の将軍在位期間全く天下一統のならなかったこと、徳川家康征夷大将軍として江戸幕府を創始しても十二年間豊臣家を滅亡させることができず、天下泰平の世を作れなかったことを考えると、頼朝の恐ろしさがわかるというものです。

最善の到達点へ最短の道で行く人間は、武断的で独裁的になりがちな傾向にあります。このままでいけば義経と頼朝が無残に殺し合い、せっかく作り上げてきた鎌倉幕府(仮)が壊れてしまう可能性があります。

それは見たくない……というのが景時の本音のようです。もっといえば自分が神と認めた頼朝が作っている芸術作品を壊されたくない+これから大きな敵がいなくなる中で、義経がまたただのお騒がせ人間になるのを見たくない、というのが本音。
じゃあ景時が病死に見せかけて毒殺すればいいじゃん、とも思うのですけど。

八幡大菩薩の化身は八幡大菩薩の化身のまま死んで欲しい。殺すのは凡人の自分ではなくもう一人の神(頼朝)でなければならない。
という特有の美学が景時にあるように思えてなりません。

また、景時は頼朝の下ではなく、義経の下にいた時の方が才能を認められていたことも印象的でした。景時が頼朝に忠誠を尽くすと決めてしまった以上、この関係は「不倫(??)」にあたるわけで、いかに美しい関係だと言っても不倫相手(??)は自分の思いごとすっぱり切らなければいけない、という景時の深層心理があるのかなと思います。

 

■兄弟

今回、兄弟の話が多かったように思います。頼朝と義経と岐路になる回でした。

頼朝は義経のことを心から愛しています。けれどもどうやら頼朝のなかには冷徹な政治家であるもう一人の頼朝がいるようです。
その冷徹な政治家のほうの頼朝が義経を危険な存在だ、と判断してしまいました。

「例えば、次の鎌倉殿は、自分だと」

まるでコンピュータが使い手の望んでいないような結果を出したかのようなこの時の頼朝の表情は何度見ても痛々しい気分になります。人間である頼朝は帰ってきた義経を労いたいのに、冷徹な政治家である自分が義経が自分にとって脅威になると判断している。
ひょっとしたら頼朝の方が義経の兄に注ぐ愛情よりも深い愛情を義経に持っているのかもしれません。
しかし、心がまだ育ちきっていない義経からすると兄は自分を拒絶しているように見えてしまいます。しかも、彼は今回自分の兄弟関係について、大きな「気づき」を得てしまうのです。

壇ノ浦で帝も神器も取り戻せなかった義経はうっかり、義時の琴線に触れるようなことを言ってしまいます。

「お前の兄も、戦で死んだらしいな」
「はい」
「無駄にならずに済んだぞ」
「兄は、平家に苦しめられる民のことを思っていました。果たして喜んでくれているのかどうか」
「私の戦にケチをつけるか」
「そうではございませぬが!!」

非常に気遣いするタイプの義時がここまで直接的な物言いをするあたり本当に兄の死が地雷なんですね。またそのときの硬い表情、声音。
そこまで兄の感情を考えることのできる兄弟関係に義経は何を考えたでしょうか。
義経は自分を戦争に出しておいて大将から外そうとする頼朝の感情がわかりません。自分は兄が好きなだけで、兄の真意を推し量ることができません。

この話をした後、死んだ漕ぎ手を丁重に埋葬するよう義時に命じています。

そのあと、検非違使である義経は兄頼朝との分断を図る後白河法皇に命じられて、宗盛を鎌倉へ護送します。

「お前にも兄がいたな」
「兄が生きていれば、平家はこんなことには」
「仲違いしたことはあったか?」
「ござらぬ。心を開きあったことがなかったゆえ。しかしそれでも、信じ合っており申した。それが兄弟というもの」

宗盛は早逝した兄・平重盛との思い出話をします。重盛は引退した清盛にかわり、平家の棟梁となっていましたが、正妻の子の宗盛に押されて一門では孤立気味だったといわれています。なので「心を開きあったことがない」のでしょう。でもそれでも、重盛は宗盛を信じており、宗盛は重盛を信じていた、といいます。

異母兄弟で家督をめぐって複雑な関係でも、信じ合うことはできる。兄弟だから。そして、兄が生きていれば平家はこんなことにはならなかったと、兄を懐かしみ、そしてある種「甘える」ことができる。

ちょうどよいことに、平清盛の43話を思い出しました。重盛は後白河法皇を攻める清盛の非道を諌めています。

「今一度いう。これはわしの国づくりじゃ。それを阻むというのじゃな。平家の棟梁であるそなたが。我が子である、そなたが」
「悲しきかな。法皇様に忠義を尽くそうとすれば、山の頂より高き父上の恩をたちまち忘れることになります。いたましきかな。父上への不孝から逃れんとすれば、海よりも深き慈悲をくだされた法皇様への不忠となります。ああ、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。進退これ極まれり。かくなるうえは、この重盛が首を召され候え。さすれば、御所を攻め奉る父上のお供もできず、法皇様をお守りすることもできますまい。……父上」

清盛はこの重盛の主張に折れたのですが、宗盛は重盛のように父を諌めることができませんでした。

宗盛は、父に従容としたがっていたせいで後白河法皇に弄ばれ、一門を滅ぼしてしまいます。その後悔を兄重盛への追憶*2とともに語ることができるほど、兄を信じ、慕っていました。

その様子を見た義経は何を考えたでしょうか。この兄弟は重盛と宗盛のように信じ合っていなかったために、関係を後白河法皇に利用されてしまいました。

うーん……、うーん……だからこそ逆に義経は兄を信じられなくなってしまうのですね。「自分は兄をどこまで知っているのか」と考えたのでしょう。義時や宗盛ほど、義経は兄に対して語る言葉を持ちません。だからこそ腰越状を他人(宗盛なんですが)に代筆してもらうことになります。文字を書くのはできるけれども兄に語る言葉を知らないからです。
でも、宗盛は重盛に宛てて書くように腰越状を書いてしまったでしょうから、頼朝には全く響かないのですよね……。

頼朝と義経は天才同士であるがゆえにずれていく、義時はそれをまた傍観するしかないんだろうか、というところで終わりました。うう。でもまだ義時の「傍観」は続くでしょう。たくさんの人の救えなかった人の思いを受け取って、蠱毒の王とも称される天才政治家となっていくわけですからね。

*1:とはいえ天才頼朝一代のあだ花に終わるかと思った鎌倉幕府を確固たるものにしたのが北条義時であり北条泰時なのですがね

*2:ちなみに重盛は伊東祐親をはじめとした東国の武士を束ねていたため、1179年に亡くなったとき、大きな衝撃が東国に走りました。だから頼朝に挙兵する隙をあたえてしまうのです。……という点でも重盛が死ななければという後悔は宗盛にあったかもしれません。