今日も砂糖と塩を間違えた

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

私には、存在する権利があると思った。✿小池進『保科正之』②

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halucy0423.hatenablog.com

これの続きだ。

net.keizaikai.co.jp

こういう記事を読んでいると、昔も今も変わらないな、という思いを抱く。

江戸時代初期の会津藩主である保科正之は、実父である江戸幕府二代将軍徳川秀忠の元で育つことはなく、今の長野の高遠桜で有名な、高遠で生まれ育った。

通説では、正之が正室の子ではなかったため、正室の嫉妬を恐れた秀忠は彼を隠した、ということになっている。
だが、小池進の『保科正之』によれば、少し事情が違うと言う。当時の慣習から、正室が単なる愛人に嫉妬することは滅多になかったそうだが、正之の母である静が直筆で正室の嫉妬のあったことを綴っているので、秀忠の正室は、静限定に関して言えば、嫉妬していたことは否定できないとする。
けれど、本書において、正之について秀忠がその存在を表に出さなかったのは、正室の嫉妬が怖いなどというささいな問題ではないという。

兄弟対立だ。

保科正之 (人物叢書)

保科正之 (人物叢書)

  • 作者:進, 小池
  • 発売日: 2017/10/30
  • メディア: 単行本

兄弟

正之の兄は、三人いる。一人は赤ちゃんの段階で亡くなった。その下には、第三代将軍となる徳川家光駿河大納言と称される徳川忠長がいた。

非常に有名な話だが、この家光と忠長の仲が非常に良くなかった。

家光は病弱で吃音があり容姿が良くなかった。一方忠長は才気煥発で美しい容姿をしていた。だから秀忠とその正室は忠長を愛し、忠長が世継ぎになりそうだったので、家光の乳母の春日局がまだ大御所として存命中の徳川家康に直訴したのだという——、巷の噂話は、ある。

実際には不明である。
吃音があろうと容姿が良くなかろうと、病弱であろうと、家光は聡明だった。
ただ、家光が10代の半ばくらいになるまで世継ぎに決定しなかったのは確かだし、忠長が弟にしてはかなり兄に対して強気に出ていて、増長していたのも確かのようだ。正之の庇護に尽力した老中・井上正就も、家光の器量を認めていなかったらしい。また、忠長の乳母は、同じく正之の庇護に尽力した大老土井利勝の妹だった。

つまるところ、家光か忠長かで、臣下の対立があったようなのである。

そんななかで、秀忠が、新しく側室としたお静とともに、正之を連れてきたら。
火にガソリンを撒く結果になることは目に見えて明らかだ。家光派でも忠長派でもないものが、新しい側室と正之に媚びへつらい、それこそ凄惨な御家騒動となり、後ろ盾のないお静一人が悪女の汚名を着せられて死に、幼い正之は、兄二人に首切られるだろう。
歴史とはそういう仕組みになっている。後ろ盾もなく力もないシンデレラは、争いを引き起こしたら悪女の汚名を着せられてありもしないことを書き連ねられ、さいごは惨たらしく処刑されるのだ。そういう面で、人間社会はクソなのだ。

正之が生まれたのは1611年。弱体化したとは言え、まだ豊臣家は滅んでいない。だから、徳川家としては御家騒動や空中分解は避けたい時期だ。

将軍として徳川家を守り、お静と正之を深く愛していたからこそ、正之とお静を「いなかったことにした」という話だと思いたい。思わせてくれ。うん

いや、正直、「なんでそんな時期に作っちゃっただよ秀忠は」と思わなくもない

対面

会津藩史書によれば、保科正之を初めて親族だと認めたのは、下の兄・忠長だとする。秀忠に正之が正式に対面することを保科正光が願っていたので、忠長が正之に面会し、贈り物まで与え、父との再会を仲立ちすることを約束したという。

疑り深い私は、「これほど正之をバカにした話もないのではないか」と思ってしまった。忠長はどこの馬の骨とも知らない弟、実際は弟かどうかもわからない弟を呼びつけて、散々弄んで、からかっただけなのではないかと。実際、正之は秀忠に会えていない。
史書ではおそらく、乱行で有名な忠長の野郎さえ正之様を愛したし、彼の人柄を認めた、正之様は素晴らしいスーパーヤンゲストブラザーだったのだということを伝えたかったのではないかと思う。

だが、本書では、丹念に会津藩外の史料も辿っていくと、実の所、徳川ファミリーの中で、正之に初めて面会したのは、上の兄の徳川家光であるという。

1630年の夏、言い換えれば、正之が十九歳の夏のときのことだ。プライベートな形で面会したというのではなく、「初お目見」という儀式のことでだという。初お目見というのは、大名や旗本などの後継内定者が、将軍と対面することで、正統なる後継者と認められるという意味合いを持つ。

ここで、異母兄の手により、正之は保科家の後継として、正式決定した。

衝撃的なことに、家光は、正之の父親が誰であるか知悉していた。

彼は、正之にお目見した直後、その正之の父親の住まう江戸城の西の丸*1へ行き面と向かって「正之と、お会いしたらいかがです?」と言ったという。当時の大名家(土佐の山内家)の家臣の記録が残っている。

ちなみに、土佐の大大名・山内家も正之が秀忠の子供であると知っていたらしく、秀忠と正之の親子の対面がかなった場合、どのようなご祝儀を贈るべきか家臣たちが考え込んでいる。もっといえば、その史料では、他家の動向も見ろとか言ってるので、他の大名家にも秀忠が隠し子を作ったことはバレバレだったらしい。小倉(のちに肥後)の大大名である細川家の細川忠利は、友人に「保科正之殿っていうのは、秀忠様のお子のことだよ」と教えていたりする。

あんなに必死になって隠したのに隠せてないじゃないか秀忠。

もしかしたら一応正之にとって「義理の伯父」にあたる真田信之黒田長政がばらしちゃったのかもしれん。

落胤にしてはその場に捨ておかず、武田信玄の娘に面倒を見させたり、土井利勝井上正就本多正信を動員しているあたり、家光と忠長のことに決着がついたら、手元に置く心づもりだったのかもしれない。山内家の文書でも「(保科正光殿が)御もりたて成され候香松様(=保科正光殿が守り育てておられる幸松様)」と記されている。保科正光自身も、養子をもらったというより「将軍の子を守り育てている」という認識の方が強かったのかもしれない。

家光に、正之と対面するよう勧められた秀忠だが、対面は断っている。

忠長と正之が初めて面会したのは、その半年後、1630年冬のことだ。忠長は正之を饗応、つまるところ正之を招いてパーティを開いている。忠長自身も、正之が弟だということを知っていたらしい。家光が知っているのだから当然だろう。本書では、会津藩の歴史書通り、やはり父の秀忠に正之が正式に対面することを保科正光が願ったという動機は採用している。
となると、上述のような「ふざけんじゃねーぞ忠長」感は無くなるし、正之がある程度徳川家から尊重されている一端を垣間見ることもできる。

少しうがった見方をすれば、家光が正之を秀忠に会わせようとしたという情報を受けて、忠長としてはそれに対抗したのかもしれない。彼は最近、つけあがってるだなんだと、微妙に評判が悪くなっていたので、父に認められない末弟を救い上げれば、「優しいお殿様」「将軍家思いのお方」という声を手にできる。

一方、家光との対面で、保科家の後継として認められたものの、秀忠に会えなかった正之は、次兄の誘いに乗ったのだろう。
正之としては家光ルートであっても忠長ルートであっても、父親の秀忠に会えればいいので、正攻法の家光ルートで父に会うのが失敗したいま、裏口の忠長ルートで父に会うという選択肢をとることもできる。

当時の正之は、公然の秘密の秀忠の子であるが、裏を返せば、非常に身分保障の難しい人物だった。秀忠の子として、秀忠本人から認知はされているが、秀忠は彼を「将軍の子」としてお披露目したわけではない。ただ、徳川秀忠という人間の息子なのであって、徳川将軍家を担う子として認められたわけではない。
自分が誰かわからないというのは心理的にもきついし、なにより社会的にもきつい。

①で取り上げたデルフィーヌさんは、父がアルベール2世ではないかという疑惑が出てきてから、身分が不明とのことで、銀行口座を利用できなくなることもあったらしい。

現に正之は、元服さえも、家督継承が完全に確定する(=正光が死ぬ)まで、高遠藩(保科家)が躊躇していたようで、十九歳を過ぎているのにまだ元服できなかった*2
秀忠の子として披露して貰えば、まず元服ができる。高遠藩の水面下での混乱を抑えることができる。

家光からすると、忠長が末弟と組んでしまうと、厄介なことになりかねない。だが、その末弟を自分の側に取り込んでしまえば、自分の力になる。
家光としてはどうあっても秀忠の影から逃れられず、徳川家の軍事指揮権も諸大名に対する領地付与を執行する権力も無いという有り様なので、若い味方は増やしておきたかっただろう。正之はちょうどいいのである。弟だが、妾の子であり、忠長のような脅威にはならない。

兄弟は二人だけだと戦争に終始するが、三人になると政治が始まるのである。正之が途中参戦した今、家光と忠長と正之三人は政治を始めたのであろう。*3

家光と忠長がケーキを半分こするのにものすごい喧嘩していたとして、その間にするっと入り込み、「ケーキはいりません。でも、ぼくはのどがカラカラなのです。紅茶をください」と目をうるうるさせて上目遣いで頼み、兄二人に揃って紅茶を入れさせる弟、それが正之(何が言いたいのかさっぱりわからない)。

深刻に対立している家光と忠長をうまくつつき、そろって正之のために動かしているということそのものが、後に「日本史上屈指の名君」と称せられる正之の政治的才能の高さを窺わせる。しかも、このとき正之は十九歳。末恐ろしい子である。

ただ、秀忠の方が三人の息子たちより一枚上手であったようだ。正之と生涯対面しなかった。
会津藩の歴史書では、秀忠に御目見したという話もあるが、他の史書をあたってみるとそんな事実はないらしい。*4秀忠は、「江戸城で姿を見かけることはあったとしても」、正式に末息子に対面することはなかった。自分が対面して実施として正式に認めた際、やはり波乱を起こすことは、目に見えていたからではなかろうか。

……と、後に「聡明な名君」と兄弟揃って言われる、家光と正之ならば、兄弟の情もさることながら、大人の思考でお互いのことを見ていたのではないかと思っちゃう節もある。

相克

正之が、家光と忠長と対面したとき、兄二人の愛憎関係はクライマックスを迎えていた。

正之を招いた直後の1631年初旬、忠長はとうとう発狂する。読んでいても背筋が凍るので、列記していこう。
酒に酔って家臣を手打ちにする、具足やかぶとを身に付け逃げる家臣を追いかけ回す、だというのに、殺害したものの名前を何事もなかったかのように呼んだ。少女を犬に食わせ、女中を酒責め(おそらく女中に多量に酒を飲ませて急性アルコール中毒を引き起こさせたのだろう)にして殺す。領地で辻斬りを起こす。

諸大名は、忠長を「酒乱」「気違」と称し、中津で隠居生活をしていた細川忠興などは、息子の細川忠利に「忠長様がとんでもない行動をされている?となると、家光様(将軍様)の地位はいよいよ御長久になられる。かえってめでたいことなんじゃないかな」とかドライな発言をしている。

秀忠は衝撃のあまり病に伏せた。これにより、家光は忠長の裁定をしなければならなくなる。

家光は忠長に何度も更生の余地を与えた。本書では家光の情けぶかさをあらわしているとしている。けれど、振り返ると、自分に子供がいなかったので、次の世継ぎとなるべき忠長が、もしいっときの迷いで乱行を始めただけなのだったら、落ち着くまで見守り、キープしておきたいというのが本音だったのではあるまいか。

世の中は戦国から江戸に転換する複雑な情勢であった。家光政権は順風満帆に、家光自身がしたのであって、当初は混乱と混迷の政権だった。
しかも、家光自身に後継である子供がいなかった*5。現実的な目で見れば、いまのところ手元に子供がいないので、弟をなんとかするしかない。

だが、忠長は最後まで家光を裏切ることになる。乱行は改まらず、ついに家光は決断を下し、1633年、忠長は自害する。

正之は、政治デビューの直後に、上の兄と下の兄の軋轢とその悲劇的な結末を目撃したことになる。

徳川秀忠も、忠長の行状に心を痛めて以降、1632年に死亡していた。
お静や正之に特別な形見分けはされなかった。譜代大名として将軍の死に際し、金子が与えられたのみである。
だが、秀忠の死に際してお静は剃髪し、「浄光院」を称する。

正之は、実の父親が死に至る病と知って、領地である高遠から江戸に赴きはしたが、病床を一度たりとも見舞ったことはない。諸大名が連日西の丸へ赴いて、秀忠を見舞っているというのに。
養父である正光も同じ時期に病みついて、看病をしていたからかもしれない。わけのわからない実父より、守り育ててくれた養父の方が正之にとっては大切だったんだろう。

また、彼は徳川どころか、松平と名乗ること、つまり実父の姓を名乗ることはなく、後にどれだけ兄に重用されようと、徳川家で重んじられようと、養父の姓を貫き通した。

正之の謙虚さの証とも捉えられる出来事だけれど、不必要な時期に自分を生み出し、自分と母にいらざる苦労をかけ続け、自分のアイデンティティを剥ぎ続けた父・秀忠と徳川家に対する復讐なのではあるまいか、と私は考えている。

秀忠が死に、忠長がいなくなったとたん、正之のことを、家光は重用し始める。

 

てなわけで③へ!

*1:家光は1623年に江戸幕府将軍となる。父秀忠は、「大御所」となって江戸城西の丸に引越し、「院政」をしくことで、家光のサポートをした。だが、秀忠が軍事指揮権を握り、諸大名へ領地を付与することは秀忠が行い続けていたため、当時の家光はいわゆる「形ばかりの将軍」であった。

*2:ふつう、14〜5才で元服する。家光は十六歳、忠長は十四歳で元服した。

*3:家光と忠長と正之には姉妹が何人もいたが(正之にとっては全員姉だけど)、それは横に置いておこう。

*4:会津藩の歴史書が嘘を書いているというより、歴史書が編纂された時代には家光ではなく秀忠に対面していた、と取り違って伝わっていたのかもしれない。

*5:これは正室も死ぬほど怖いし、家光が春日局に叱られて正室への恐怖を抑えて大奥へ行こうとするたびに、正妻・堀田正盛「行かれるんですか?(ジト目で)」、高飛車ハニー酒井重澄「上様の浮気者!今晩僕とデートするって言ったじゃないですか!!」、病弱剣豪ハニー柳生友矩「上様ぁ♡そんなところよりみんなで剣術の道場いきましょうよお〜♡(ゲフゲフ)」とかいって家光の最愛のハニーたちが引き止めたせいだと思われる(適当)。「もう!しっかたないなぁ〜♡」といって大奥ではなくハニーたちの方へ飛び込んでったんだろう(適当)。三十後半になってから子供を作り始めた。

私には、存在する権利があると思った。✿小池進『保科正之』①

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先日、こんなニュースを読んだ。

www.bbc.com

ベルギー前国王アルベール二世陛下の隠し子が、認知され、王女の称号をうけることが決定したというものだ。

ベルギー王室のありかたはさておき、被告人のデルフィーヌさん——現在ではデルフィーヌ王女殿下——の弁護人の、この発言に心が震えた。

「法廷闘争での勝利は、決して父親(アルベール2世)の愛情の代わりにはならない。だが、正義を求める気持ちを呼び起こすものだ」、「同様の試練を経験してきたもっと大勢の子どもたちが、試練と向き合う強さを見つけられるかもしれない」

また、彼女は、別の記事だが、こう発言している。

「私には存在する権利があると思った。ロイヤルファミリーの中で、ということではなく私自身として」
婚外子として、私生児として生まれてくるのは子どもの罪ではない。婚外子たちが差別を受けることがあってはならない」

この発言を受けて思い出したのが、保科正之という江戸時代初期に活躍した会津藩主だ。

全く異なる時代の人だ。
デルフィーヌ殿下や、現代の我々が考えるような「人権」の思想もない。身分制でがちがちにかためられている。
母や自分の境遇をどう思っていたかは、彼が死んで数百年たった今では、わからない。

言葉にすることさえ、できなかっただろう。

なにせ、彼の父親は徳川幕府第二代将軍、徳川秀忠。異母兄は徳川家光、徳川忠長。

彼は秀忠の愛人の子として生まれ、江戸ではなく、大人になるまで現在の長野で育った。江戸に帰ってきたときは、異母兄二人が、熾烈な後継者争いをしていた。

保科正之 (人物叢書)

保科正之 (人物叢書)

  • 作者:進, 小池
  • 発売日: 2017/10/30
  • メディア: 単行本

ただ、この本を読んで、彼の業績をつらつらと眺めてみると、「私には存在する権利があると思った」という言葉ほど、彼にふさわしい言葉はない気がする。

デルフィーヌさんは、父の無情を、司法の場で解決した。親の非道に対する現代の司法の勝利だ。
だが、保科正之は、父の無情と非道を、実力で解決するしかなかった。

拒絶

 保科正之は、1611年初夏、本書によれば武蔵国北部(いまの埼玉県さいたま市緑区あたり)で誕生した。父は前述したとおり、徳川秀忠。母はその愛人であったお静である。

母の静は秀忠の乳母である大乳母局の侍女として大奥にあがっていたとされる。
が、どこで秀忠と静が出会ったのかとか、どのくらい二人の密かなる関係が続いたのか、というのは、様々な史料が錯綜していて、確かなことは何も言えない。

現代となって確実に言えるのは、大奥に上がっていたお静という女に、秀忠が保科正之となる男の子をみごもらせた、というだけのことと、秀忠の子を身ごもったお静は、身重の体をおして、逃げるように、いまの千代田区から、現在のさいたま市緑区あたりまで*1、やってきたということだけ。

大奥で何があったのかは、当時の史料はほとんど語らない。
だが、保科正之の統治した会津藩の歴史書は、「秀忠の正室のお江の方の嫉妬のせいだ」、と語る。
この話は大衆に好まれ、何度もドラマや小説の材料となってきた。お江が夫の秀忠より七歳年上というところも、かなりの好奇を誘ったらしく、いずれも、お江の方が年下の夫を独占したいあまり、お静を追い詰めていく様が描かれる。
そして、この小説やドラマでは、秀忠は恐妻家だと語られることが多い。

本当かどうかはわからない。
ただ、秀忠もお江も一切何も口にしない中で、当時のお静の肉声はある。

彼女自筆の願文だ。それによると、男子を無事安産し、母子健康で、運がひらけますようにという普通の祈りを除けば、奇妙で悲痛な言葉に満ち溢れている。
彼女は、お江の嫉妬を被り、江戸城に居られず、各地を彷徨っている、これは、自分のような人間が、秀忠の子を身ごもったことに対する神罰という。

血を吐くような叫びに聞こえる。

お静自身は、自分の身の不遇はお江の嫉妬のせいだと考えており、なおかつお江の嫉妬をえたのは、自分が秀忠の子供を身ごもるという不遜なことをしたが故の神罰だと考えているようだ。

自分では処理できないほどの理不尽なことが起きたとき、きっと、人間は神罰だと思うことで、壊れそうな精神を保つのだろう。

お江が本当にお静に嫉妬していたのか、確たることは言えない。

秀忠は正之が生まれたとき、彼を内々に認知し、幸松という名前を与えたという。

なぜ、「内々の」認知だったのか。将軍の息子である。しかも、上流階級の男性には、正室ではない女がいて当然、その間に子供がいて当然の世の中である。母が誰であろうと憚ることはないだろうに。

ただ、はっきりいえるのは、秀忠は、お静とのあいだに、何らかの事情で手元で育てることのできない私生児を作ったということだけ、正之は生まれる前から父とその家族に拒絶されたということだけだ。

漂流

秀忠は、生まれた息子と対面することはなかった。

だが、息子の養育先は指定していた。その点で、秀忠は、父親としての責任は持っていたらしい。

いわゆる「ナーサリー(託児所)」的役割としては、自身の弟である武田信吉*2も養育した、武田信玄の娘である見性院のところ。見性院江戸城の田安門の近く(北の丸)に住んでいたから、秀忠としても目が届く。

ただ、秀忠と幼い正之が対面したという記録はない。もっぱら、当時の徳川幕府の老中である土井利勝井上正就本多正信の三名が、この「幸松様」案件の処理にあたっている。
当時の幕府のブレーンとして有名な土井利勝井上正就本多正信と出されてしまうと、何となく「非常に重大かつ極秘裏に進めたい案件」という勝手なイメージが沸いてしまう。だいたいは時代劇のせいである

彼の養子先としては、今の長野県 伊那市にある高遠藩の保科家を選んだ。保科家はもともと武田家に仕えていて、真田家などと縁戚関係を結んでいた*3。その後徳川家に仕え、徳川家とも縁戚関係を結んでいる。また、当時の当主で正之の「新しいお父さん☆」になる保科正光(この人の妻が真田信之の妹)は、自分の妹を、徳川家康の養女として黒田長政に嫁がせている。

おわかりいただけただろうか。息子を江戸から離れた高遠に置きながら、徳川に縁深く、なおかつ真田信之黒田長政という優秀な武将・大名の傘の下においたのだ。保科正光自体も非常に優秀な武将であったことを付記しておく。

秀忠は、保科家に五千石も加増をして養育費を払っている。

ところが。秀忠がやったことはここまでだ。ここからはノータッチだったようである。

保科正之は、二十一歳になるまで元服できなかった。養父である保科正光が実父の秀忠に引き合わせてから元服させようとしていたから、だという。
また、保科家にきてから、読んでいる私が嫌になる程、遺産相続のことだの、もともと正光が後継者に定めていた存在を追いやるだの、幼少期の正之の精神を削っていったであろう出来事が頻発する。

父親の顔も見たことがあるかどうか。田安門近く(北の丸)に秀忠が折々に行き、肩車でもしていれば別なんだろうが、そういう記録は残っていない。
自分が誰だか「納得性」のないまま、ただただ周囲にかしづかれる。
養子先は、自分が来てから揉め出した。
なかなか元服できない(=大人として認めてもらえない)。
自分と母に振り向かない秀忠をさぞかし恨んだだろうが、それを口にしたら国の最高権力者への呪詛ということになり、最悪死ぬ。

普通であったら、人生に意味を感じなくなるのに、不良にもならずまともに生きているらしい正之は、どうやって溢れ出る感情をコントロールしていたのだろう。

ここにおいて、私はこう思っちゃうのである。

「秀忠何があったんだ?」と。

単に愛人と儲けた子を、まるで人妻と罪の子でも儲けたかのように、ことを極秘裏に運ばせている。
言い換えると、正室のみに「浮気」を隠しておくにはいささか大仰にすぎる。

厳格な一夫一婦制が敷かれ、浮気をすれば政治生命に関わるような問題がある現代ならありえることだ。
だが、当時であれば、男子が生まれればその分、後継者が増えることになる。もう秀忠の正室のお江の方は年齢的に子供を産むことは難しい。となれば、お静と正之を手元に引き取ってお江に引き合わせ、その生まれた子をお江の手元で育てることも、おかしくはない選択肢のはずだ。

今となってみれば残酷な話かもしれないが、そういうふうにする大名は少なくないようだ。
そういえば、いまの大河ドラマである「麒麟がくる」でも織田信長正室帰蝶は、信長がどっかで作ってきた子を自分の子のように育てていたな。

だが、本書はのべている。
実は、秀忠は正室の嫉妬とかそういうレベルでない、大きな問題を抱えていたのだそうである。いや、徳川家が、というべきだろうか。
正之が「いやでも感情のコントロールをせざるを得なかった」一因かもしれない、が。

 

そんなわけで②に続く。

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*1:そのまま行けば徒歩で5時間ちょっとくらいかかる

*2:もともと松平信吉というが、武田家へ養子に行った。

*3:真田信之の妹が保科家に嫁いでいる。だから正之と真田信之は仲が良い。真田信之徳川秀忠関ヶ原の戦いなどの恨みにより、仲が悪いというのが通説だが、近年否定されつつある。ときたま、秀忠が保科正之を保科家に養子に出したという話で、「あの真田信之の妹の嫁ぎ先に大切な隠し子をやるだろうか」という論がでることもあり、非常に面白い。

作業するページ⑦

プロイセンのフリードリヒ大王とその妻のエリーザベト・クリスティーネ王妃の文通を手前勝手ながら海藻(kaisou-ja)様と翻訳したものになります!

当方、フランス語はおろか18世紀プロイセンに造詣がないので間違いなどありましたら優しくご教授いただけると幸いです。

*めも!*

フリードリヒ2世:政治・軍事は天才だけど人付き合いが嫌いすぎて妻に公式行事を任せがち。弟が自分のせいで死んだり七年戦争でボロ負けしそうだったり、あまりにプロイセンが負けるので退位を考え自殺未遂しかけたり、踏んだり蹴ったり。

エリーザベト王妃:人付き合いは上手だけれど政治に関心がないので夫に政治を任せ切っている。あんまりにプロイセンが負けるし、夫が自殺未遂しかけたり、妹の夫が死に、母親も死んだ。踏んだり蹴ったり。

「私は重衡様の死を喜んでいる。」✿『式子有情 軒端の梅は我を忘るな』

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感情を抑圧された育ちのゆえに、最愛の人と恋をできなかった女性の、
壮絶なラブストーリーです。

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 味わい深かったのが、「恋愛にさえならなかった」というところ。

「彼女」は、物心ついた時から周囲と隔絶されていたせいで、「感情」が育たなかった。和歌には興味を示したが、出来るのは美しい言葉の連なりだけの、「心」のない和歌ばかり。

ところが、「彼」と出会って、自分とは異なる思考や感情を持つ「にんげん」の恐ろしさ、自分の感情の未知の動きに触れる。そして突きつけられた問いに彼女は答えられない。
彼が壮絶な死をとげたとき、心が軽くなった彼女。死んだ、思い出の中に生きる彼は、ただ彼女に優しいだけ。自分と異なる思考を持つことは、彼女を苦しめることは、もうない。
けれども、それは死者を弄ぶことであり、彼女は闇に蝕まれ始める。

そんな話。

もちろん、ちゃんと最後は救われるし、彼女は彼の出した問いに答える。

平安末期、新古今和歌集時代の女流歌人である式子内親王と、平家の武将である平重衡の激しくも空しい恋を扱った、若干異色の恋愛小説だ。

感動や慟哭を知らない姫君。

私は男女間に造詣がないので、なんとも言い難いのだけれども、この本における式子の恋の仕方というのは、一部の方からは「お叱り」を受けるものなんだろうなあ、と薄々感じている。
勇気がないとか、「地雷女」だとか……。重衡がかわいそうだとか。

愛していながらも心を素直に表現できない。傷つきたくない。夜も眠れないほど重衡が愛おしいのに、彼の一挙一動が怖い。

だが、私は、「その気持ち、わかる」と思ってしまったのである。

今まで式子は皇女として、賀茂斎院として父や兄弟の身代わりとして神に祈り続ける、俗世から離れた世界で生きてきた。ひたすら、ひたすら。自分を律して生きてきた。

私はもちろん、そんな大層な重い立場に立ったことはない(笑)が、学校では教師から「いい子にしていなさい」と言われ、家でも、親ははっきり言わなかったが「いい子」であることを求められていたと思う。社会に出ても組織に従う「いい子」であることを求められ続けて、従容としていた。
前の職場で、新入社員だった私は、妊娠した先輩が「妊娠してごめんなさい。仕事に穴を開けてごめんなさい」とその課の職員全員の前で頭を下げたのを目撃した。廊下ですれ違う程度の、よく知らない先輩を祝おうとしていた私は、面食らった。私の自我も、先輩の自我も透明になっていたんだろう。
前の職場では、私はずっと「いい子」だった。ずっとカラに閉じこもっていた。他人が怖かった。

そんなのと似たり寄ったりの環境を、式子は、生きてきたのだろう。

本書ではやんわりとしか触れられていないが、式子の伯父崇徳と父の後白河の対立した保元の乱が治ったのも束の間、こんどは後白河・二条に対するクーデターである「平治の乱」がおき、その通奏低音として、後白河と二条が激しく対立している。
式子内親王が斎院だった時期は、彼女の父親の後白河上皇と兄の二条天皇が激しく対立し、後白河側の勝利として、式子の弟の高倉天皇が登極した時期に、みごとに重なる。

その天皇をめぐる政変続きの中、彼らの娘であり妹であり、神に対する名代である「斎院」が「自我」を持つことはできない。透明になるしかない。
親や兄弟や周りに迷惑をかけない、「良い子」になりなさい。「良い子」でなくてはいけません、と、式子は育ってきた。言い換えれば「都合の良い子」なわけだが。

そして、自分の存在をなくすかのように部屋の中に閉じこもり、物語を読みふける。

けれど、成長すればするほど、人間は「都合の良い子」ではいられない。斎院である式子も同様だ。彼女は、多感な時期に入り、とうとう斎院である自分とそうでない自分の間に引き裂かれ、元の真面目な性格もあって、自我の崩壊に見舞われる。

気鬱の病(おそらくうつ病)にかかり、斎院を退く。

ねえ、竜寿。斎院を降りたら、私、元気になれるかしら。

この言葉は、あまりにいたましくて悲しい。
竜寿というのは彼女が最も心を許す女房。

そんな心の弱っている式子を最初に迎えたのは、意外なことに、父の後白河院と、その新しい寵姫の建春門院だった。

自我の塊である父と、建春門院の姿をみて、彼女は、母を捨てた父と、母から父の寵愛を奪った女に対する不快な感情を抱くでもなく、人前でくったくなく笑う二人を「不思議だ」と思ってみている。
完全に、彼女は自分の意思がわからなくなっていた。

ところが、父は(娘に苦労をかけた事を謝罪しないが)、心を弱らせて帰ってきた娘に、同居するなど深い愛情を注ぎ、人生の今後について、重要な指針を与える。

「あまり考え込まずに、歌でも琴でも好きな事をやるが良い。今様も面白いぞ。なんならこの父が教えて進ぜようか」

史実にたちもどれば、式子内親王は皇女としては異端なことに、歌人として積極的に活動している。普通であれば、「内親王ともあろうものが……はしたない」といわれそうなところだ。
ここまで、彼女が歌の道を極めたのは、今様の道を極めている父の後白河院の背中を見ていたせいではないだろうか、と私は考えている。
実際、政変があって離れ離れになるまで後白河と同居していて、父に深く愛された娘であったらしい。
父の後白河は、非常に奔放な人柄で有名だ。当時の皇族ではなかなか奇抜なことに、今様をこよなく愛し、彼の母の待賢門院は息子の今様狂いを肯定して、ともに楽しんでいた*1
後白河も、自分が母にされたのと同じように、娘の和歌狂いを肯定したのかもしれない。

美しいまま老いていく。

本書に戻ると、式子は以前より興味のあった和歌を本格的に始める。が、和歌の師である藤原俊成からは、期待される反面、感情が育っていないため、「幼い」と評される。

ただ、式子のように感情を抑圧されているのは彼女一人ではない。

式子の兄である守覚法親王*2も、弟に玉座を譲り渡すよう幼少期から運命づけられ、自らの人生を他人事のように生きている。本心を隠し、徳の高い僧であることを演じ切っている。妹に本心を吐露した彼は、こう言い放つ。

そなたたちの方がもっとつらいかもしれない。女として生まれながら、子を生むことなく、美しいまま老いていかねばならないのだから。

一方、式子のもう一人の兄である以仁は、ただ存在することが、耐え難く許せない。それが、彼の人生を狂わせていく。最後は非業の死を遂げる。

愛する式子の兄の以仁を殺害したことをきっかけに、平重衡の人生は暗転して行くのだが、それはちょっと先の話である。

重衡様は私のことを何もご存知ない。

感情が薄く、おおよそ意思というものが存在しない式子のもとに現れたのが、平重衡である。
平清盛の末子。平維盛平資盛と並ぶ、ザ・平家の貴公子である。平家の貴公子のテンプレート。デフォルトオブ平家の貴公子。平家の貴公子オブ平家の貴公子。
歴史上で言えば、教養高く諸芸に優れた華やかな貴公子であった一方、以仁王の挙兵を追討したり南都を焼き討ちしたりした、平氏政権の闇を担う人だ。

神に仕えた後、病を得て斎院を退き、今は後白河に愛されている故にそれなりに華やかに、だが穏やかに深窓の姫として暮らしている式子とは真逆の人間である。

ただ、共通点は存在する。お互い父に依存しているということだ。式子は後白河院に。重衡は平清盛に。二人は、お互い父に深く愛されている子として、そのひざもとに甘えて生きている。極論すれば、父の後ろ盾がなければ生きて行くことができない。
それをほとんど自覚せずに、恋をしてしまったことが、二人の悲劇へと繋がる。

出会い方がまた、後白河の機嫌を取るために、彼が手元に置いている愛娘の式子に重衡が拝謁しにきたという、みごとな平凡さなのである。そこが非常にいい。
重衡にとって、年上の「有力な」内親王で、正直、拝謁しにきたときは彼女を道具としてしか見ていなかっただろう。

けれど、彼はどんどんと、少女のように無垢な式子に、足を滑らせるようにどんどんと心を囚われていく。
重衡といえば華々しい恋愛遍歴の持ち主で、手が早い()のだけれど、式子が、「いい子」で「周囲に望まれる姿」を自己を抑圧してまで体現している故に、彼の培った豊富な恋愛スキルが、役に立たない。人形に向かって話しかけているかのようになる。

だから深みにハマっていってしまう。

あのお方の心のほんの片鱗でも知ることができたら、 

一方の式子は、才気煥発な重衡に心動かされているにもかかわらず、生まれでる激しい感情にどう対処していいのかさっぱりわからない。

そしてなにより、彼女は、激しい感情を躊躇なくぶつけてくる重衡に怯えてしまう。

式子は彼に向き合えない。

けれど、重衡も式子と向き合えないのだ。不自然なことに、彼は、彼女のいままでの境遇に想いを馳せることがほとんどない。生まれてこのかた感情を抑圧するように教えられて育ち、気鬱の病まで患うほどの彼女の生い立ちを、考えることはない。
重衡にとっては式子は「高嶺の花」「理想の女性」で、そこにどんな苦しみが存在するのか全く理解しようとしない。自分の感情を押し付けるばかりなのだ。

文体が上品なので非常に美しいシーンに仕上がっているが(それも作者の力量だと思う)、雨に降られて全身を濡らしながらも、式子に迫り、境遇上あり得るはずもないのに彼女の心に別の男が住っているのかと嫉妬に身を焦がす重衡は、激しく恐ろしいものを感じる。
そりゃこの重衡は愛する人の兄を追討したり南都を燃やしたりするだろう。

一番「しげひらはじぶんのかんじょうをおしつけているなあ」と頭を抱えたのが、式子の兄の以仁を追討することに疑念を抱かないことである。

そしてふと、以仁王は小斎院様の兄君なのだな、と思った。

「ふと、」でいいのか重衡。あれだけ激しく恋い焦がれている人の兄を殺す姿勢がそれで。
むしろ、自分の行為が愛する人を傷つけるかもしれないという恐怖に囚われることはなく、後白河院鹿ヶ谷の陰謀を企んで、清盛が院を幽閉したとは言え、以仁王どうして平家に刃向かうのか、疑問に思っている。
あたりまえじゃないかしげひら。私はしげひらにツッコミたい。後白河院から実権を奪っているのは平家だぞ。その息子が実権を取り返して何が悪い。弟の発言を聞いて、草葉の陰で後白河院と平家の調整役として働いていた重盛兄ちゃんが「しげひらをちゃんと教育しておくべきだった」と絶対頭抱えて泣いてるぞ。

ついには、父の命令に従い、東大寺興福寺など南都(奈良)の寺を焼いてしまう(半ば不慮の事故であったが)。彼はそれが原因で仏罰を恐れ、心が「死」に傾いていく。

つまるところ。

式子が父の後白河の膝元で守られているように、重衡は父の清盛に依存しているのだ。偉大なる父をなかば盲信している。父のすることに、兄たちの、重盛のようにたしなめるでもなく、宗盛のように優しく兄弟を守るのでもなく、知盛のように黙って責任を取るわけでもなく。父の大きな腕の中の箱庭で優雅に貴公子をしていただけだった。

彼も真のところ、式子と同じように、自分の意思を持たなかったのだ。
だから、式子をまっとうに愛することができない。子供が綺麗なおもちゃを欲しがるように愛してしまった。ただただ、そこには、妄執の世界が広がっている。

ぞっとすることに、式子はそれをおそらく見抜いていたのだろう、心の中で叫んでいる。

重衡様は私のことを何もご存知ない。

彼女が卑屈になっているようにみえて、彼を心の底から愛してしまった彼女の、魂の慟哭にも聞こえる。
彼女は、重衡とは異なり、兄の以仁が反乱を起こし平家を苦しめたことに心を痛めている。重衡と出会い、意思を持つようになったのだ。

私は重衡様の死を喜んでいる。

重衡は一ノ谷の戦いで捕虜となり、斬首されて死ぬ(史実をご参照いただきたい)。
式子はとうとう、重衡と「恋愛」に至らずに終わった。
彼は、彼女に「軒端の梅は我を忘るな」という下の句を残して永遠にこの世から消えた。

でも、ここで物語は終わらない。ここからが本番である。

式子はある面で、ひどく安心した。もう重衡の心や気持ちを考えなくて済むから。人間は他人の気持ちを考えるということに非常に労力がいるのだ。
式子はもう、兄を殺し、父を苦しめた人の立場に立って物を考えずに済む。彼はもう感情を押し付けてこない。安心して眠ることができる。
ただ、脳裏にあるのは美しかった青年との思い出ばかり、などという生やさしいものではない。

彼女は脳内に自分の思う通りに動く彼を作ってしまうのである。彼であって彼でない、式子の理想を。そう、重衡がまるで式子に押し付けたことを。ある種の復讐だ。

私は重衡様の死を喜んでいる。

壮絶な告白である。彼女はまるで死んでようやく手に入った男の首を弄ぶサロメのように、ようやく手に入った脳内の重衡と戯れる。 

サロメ (光文社古典新訳文庫)

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 彼女はもちろん、サロメではないので、自分が死者を弄んでいることに恐れをなす。

自己満足を押しつけられた対象となる人間は、その重みがより苦痛となりはしないだろうか。

私は本当に恋をしていたのかしら。

それ、しげひらに言ってくれ、式子。
ぞくぞくするのだが、式子は自分が重衡からそのように見られていたことに一切気付いていない(と思う)。けれど、重衡の式子に対する愛情のあり方を牽制するような発想をする。自分の心の中に、重衡と同じ発想があるのだ。

重衡の自己本位な愛情は繰り返し描かれている。

重衡の妻・大納言佐藤原輔子とは比較的真っ当な関係を築いているようにみえる。輔子の心を案じ、だが彼女なら大丈夫だと信頼もしている。一方で、妻との間に子供がなくて良かったと彼は述懐している。……彼自身が美しく死ぬために。
そしてさらに念を押すように、鎌倉に捕虜となっている際に千手の前との関係を持つ。すぐに死ぬから持たなきゃいいのに持ってしまう。がまんしろよしげひら

ここまでくると、どうして式子は重衡を愛しているのか、よく分からなくなってくる。

けれど、式子は、自分の仏道の師である(重衡の死に立ち会って受戒させたからという理由で呼び寄せた)法然にこう述べている。

私は人を妬んだことがございます。世を恨んだことも。それになによりも……私は人の死を喜んだことがございます。

彼女に確実に感情ができていた。しかも綺麗な感情ではない。醜い感情も。

式子はかなり自制しているけれど、彼女の独白から感じるに、輔子には、もんもんと嫉妬の情を抱いている。わかりにくい嫉妬だが、輔子の境遇をいたましく思いつつも、彼女と自分を引き比べて自分を貶めている。
のりこ、しっかりするんだ。のりこはしげひらの妻ではないんだ。輔子と自分をどうして比べるんだ。それ根深いやきもちだよ

当然と言えば当然の感情だ。重衡の心の7割くらいを占める女性、正妻なのだから。
重衡に恋しちゃった女、しかも内親王としてはかなり気になる存在だろう。
「わたくしより輔子どのの方がしっかりしてるんでしょ!そっちとよろしくやってればいいじゃないの!!!わたくしなんて面倒な女なんでしょ!」と。
でものりこはすっかりわすれているがのりこにちょっかいをだしたのはしげひらのほうであるし、というかそもそも二人はお互いの感情を確認し(察してはいるものの)恋愛に発展したわけではない。
内親王が世話になったが不遇になった臣下を心配し、密かにいろいろと手配するのはおかしなことではない。……という発想に至らないほどのりこはしげひらへの愛情であたまがきゅうきゅうなのである。

つまり、人を妬むという感情も重衡から教わったものなのである。
自分の感情も意思も持たなかった女性が。

軒端の梅は我を忘るな

法然の教えに救いを得ていた式子は、突如失脚する。

彼女は史実では二度失脚しており、一度目は叔母である八条院を呪詛したと噂されたこと、二度目は父後白河院の霊がついた人間の事件に連座したとされたことだ。ただ、一度目は後白河院が生きていたので救われた。二度目は、彼女の甥である後鳥羽院が式子を重用し(彼女は後鳥羽の准三后(もちろん夫婦関係にはないが、後鳥羽にとっては太皇太后・皇太后・皇后につぐ立場の人)である)、息子の准母にしようとしていたので救われたらしい。

本書では一度目の失脚をクライマックスに持ってきている。

失脚し、式子は出家した。愛娘の出家に父の後白河は不興だった*3。そう、意思のなかった式子は、父の意思にさえ、逆らえる人間になっていたのだ。

出家して、なにもなくなった彼女は、重衡との思い出の詰まった場所に立っている。
ただ、梅の花だけは変わらない。

彼女は重衡の下の句に上の句をつける。

「ながめつる今日はむかしになりぬとも 軒端の梅は我を忘るな*4」と。

ながいときをへて、ようやく二人が一つになった。

史実では、彼女はこの歌を詠み、しばらくした後、乳がんとなって薨去する。いずれ来る死を見据えていたかのようだ。

本書では若干式子の寿命に猶予が与えられているように見える。
けれど、「ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅は我を忘るな」
……言葉を失う。かなり心にくる。息ができない。

軒端の梅は、重衡との思い出をずっと見守ってきた。半ば恋の象徴だ。
私が死んでしまっても、重衡が逝ってしまったとしても、軒端の梅よ、私(たち)の恋を忘れないで欲しい、と。

式子は重衡を愛し続ける。愛し続け、生涯を傾けて彼への熱情を織り込んだ和歌を詠む。まるで自分と彼の恋の挽歌のように。

『明月記』で藤原定家は、自分の主君である内親王が、死の床で、「祈祷もなさらない!*5」とイラついている。これは式子内親王が変わり者だったという証左だという話が有力だけれど、本書の世界観に浸ってみれば、彼女が自分の治療を拒んだ理由が手に取るようにわかってしまう。

彼に伝えたかったのだ。来世で。
「ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅は我を忘るな」という歌を。

重衡♡式子はありえるか!?

業の深い恋愛小説を読んだものだ。最高に萌え転がった。良かった。

どうしてもこの時代は大河ドラマ平清盛」を想起する。

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 あの奔放で掴み所のない後白河院松田翔太さん)が娘と同居していて、彼女を可愛がる様を想像するとかなり微笑ましい。もっと言えば平重衡(辻本祐樹さん)に「お前、我が娘に色目を使っておるな?」とガン飛ばす様を想像するともっと微笑ましい。

そんなシーンはないが。

後白河天皇の第三皇女・式子内親王は、天才的な歌人である。皇女としては異常なことに、「趣味」に歌を止めることなく、普通の男性歌人と同じように活動している。病弱だったようで、精力的に、というわけではなかったようだが。

で、彼女には噂がある。

彼女の詠む恋の歌はどれも迫真。恋をしたことのある人なら共感できるものもあるのでは。私も男女関係に疎いが「なんかわかる」という和歌は多数ある。
じゃあ、彼女は実際に恋をしたことがあるのか?では、誰に恋をしたのか。

日本古典文学界の密かなる謎の一つになっている。恋愛は二人が接点を持たなければ成立し得ない。皇女という立場。接点を持てる存在は自ずと狭まってくる。

で、式子内親王と接点を持った男性は誰か(女性かもしれないが、とりあえず男性という点でみんな絞っている)と考えると、和歌の師匠、藤原俊成。その息子で、頻繁に彼女の屋敷に出入りして面倒を見ていた、半ば和歌の弟子のような藤原定家仏道の師、法然。そこらへんがいる。でも定家はすごく年下で、俊成や法然はめちゃくちゃ年上だったりする。式子が極度なショタコンかおじさん大好きでなければならない。

となると、屋敷に出入りしていた人の中で、一人、いいのがいるのである。
平重衡だ。
平家の人々はそれぞれお世話になった人々と別れを惜しむのだが(平忠度は和歌の師の藤原俊成のもとへいき、平経正はおそらく幼少期世話になった守覚法親王のもとへいった)、「平家公達草紙」という鎌倉時代に成立したものでは、何故か平重衡は、式子内親王のもとへ赴いたとしている。*6

だが、重衡も結構年下(この本が書かれたときは四歳年下だったが、最近の説では八歳年下)である。

男性陣、ど偉く美形の女性で和歌が上手で上品な八歳年上はいけますか?
女性陣、八歳年下の平家の貴公子だけどアイドル目線で見ずにリアルな恋はできますか?

あたまがばくはつするしかない。

だからもう、私はこの本で推されていた、怪しげも極まっている九条兼実説(※同い年。絶対知り合いを通じて近い知り合いのはずなのになんでか日記「玉葉」ではそんなに触れてくれない、というか式子を軽んじて後白河院が式子に与えた屋敷に住み続ける(この本では式子と住みたかったんだとか言ってる)、九条良経が生まれた時期と式子内親王が斎院をやめた時期が重なる=良経を出産したのでは?、確かに内親王が身分の下の男性に心を許す可能性は低いので摂関家くらいがギリギリだろう)を推すしかないのである。

虚構の歌人 藤原定家

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まあこのとてつもなく怪しげな説で言えば、九条良経がめちゃくちゃ和歌がうまい理由の説明がつく。

お父さん(兼実)は和歌に造詣がある、お母さん(式子)は天才歌人。良経は上手くなるしかない。

 

また、良経と式子内親王は和歌のやりとりをしている。
九条兼実に屋敷(大炊御門殿)を返してもらえずなかなか座所が落ち着かなかったが、兼実が失脚して式子が大炊御門殿にいくことができたという文脈で読んでもらいたい。大炊御門殿には見事な八重桜があった。

 「ふるさとの春を忘れぬ八重桜 これや見し世にかはらざるらむ(世の中は変わったけれど、あなたの見ていた八重桜は変わっていないわよ)」
「八重桜をりしる人のなかりせば 見し世の春にいかで逢はまし(八重桜を折って贈ってくださる方がいたから、かつてみた春に逢うことができました)」

式子は良経に八重桜をプレゼントしている。
性格の悪い私はどうも「てめえの親父がぶんどった家の桜が咲きましたわよ!!」「ありがとうございますねえわざわざ!!」というギスギス嫌み合戦に見えてしまうのだが、親子であったならこのギスギス感は見事に解消し、たんに母が息子に八重桜を見せているほっこり話になる。兼実さんもかつての恋人と息子のそのやりとりを見て後ろでニッコリしただろう。内親王の恋人が兼実であればの話である。

まあこればっかりは式子内親王九条兼実に聞くしかない。というか私は面白半分でこの説を推奨しているだけであって、正直式子内親王の恋人は、あの和歌を読んでしまうと、内親王のそばにはべる、彼女と似たり寄ったりの年の貴族の中にいたのではとふと妄想してしまうけれど、相手が誰でも面白がれる自信がある。

またかのご本では、お相手候補に、源通親も挙げられていた。彼も式子内親王と同い年なのだ。
通親は式子の弟の高倉帝の側近だった。彼も和歌が大好きである。式子内親王もだが、ヤンデレめいた和歌を詠むことに定評がある。

九条兼実源通親式子内親王、三人の同い年の中でやっぱり和歌がうまいのは式子内親王である。

通親のヤンデレさはストーカーに近いのである。怖いのである。「死んでもお前の近くに俺のサブ端末を置いて愛し続けるからな!」って和歌を詠みがちなのである。
兼実はそもそも坊ちゃんなので「こんなに私がお前を愛しているのだから、お前が私のことが嫌いなはずがない!」みたいなパワー恋愛みたいな和歌を詠みがちである。

自分の恋を黙ってられそうにないので、死にたい」という式子内親王の和歌は怖いというより、人間の感情のぎりぎりの深淵を見る、という感じがある。

やっぱり天賦ってあるんでしょうなあ。

ただ、九条兼実/源通親は、式子内親王と和歌のやりとりはしたかったろうな。和歌に情熱を燃やす人々。彼女の和歌から、自分の和歌を磨かない手がない。

 

*1:後白河院は母親への愛が深い。どのくらい母好きかというと、母が亡くなった折に悲しみすぎて精神的な危機に瀕してしまったらしく(一ヶ月半ほど本人曰く「日が沈んで、闇夜へ向かっているように」眼前真っ暗な状態で悲しみに沈んでいたらしい)、兄の崇徳院がわざわざ彼を引き取って同居したほど。即位直後の自分と保元の乱を起こし、怨霊騒ぎに恐れる存在だったにもかかわらず、後白河は崇徳と同居したことを自ら記している。また、後白河はすぐ上の姉の上西門院統子と非常に仲が良い。上西門院は、ああいうことがあったにもかかわらず、兄の崇徳の遺児を猶子にしている。大天狗様の母子関係・きょうだい関係は、非常に温かく良好なものだったのだろう。保元の乱という悲劇さえなければ。

*2:最近では式子の一つ年下の弟とされている

*3:後白河院がなぜか式子内親王の出家に機嫌を損ねたのは史実だ。政治的都合や宗教的都合もあったと言われるが、あらぬ噂を被せられて地位を失っていく娘の姿を見て、愛母待賢門院がやはり呪詛の噂で失脚し出家したトラウマが蘇ったという話もある。そうであれば後白河の、父であり息子である側面を感じることができて、かなり面白い。

*4:「このようにお前を物思いにふけって眺めている今日の姿が過去になってしまったとしても、軒端の梅は私を忘れないで欲しい」、という意味

*5:現代でいうと「医者にもかからない!」ということだと思われる

*6:下世話なことを言えば式子内親王に仕えている女房が重衡のよきお相手(お察しください)であり、内親王の御所に足繁く通い、遊んで(意味深)いたのだという。いうなれば重衡様専用ナイトクラゲフゲフ、なんでもない。式子内親王は重衡から金をとるべきゲフゲフなんでもない。

フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳してみよう〜④

18世紀のプロイセンに実在した、一言では形容しがたい仲の国王夫妻の文通を海藻さん(kaisou-ja)と訳しています(⌒▽⌒)

残念ながら、私はたまたま18世紀の王妃様を調べていた時に書簡が公開されているのを見つけたもので、フランス語はおろか、18世紀プロイセンに造詣がありません。豆腐メンタルでもありますので間違いがあれば優しくご教授ください。

*メモ(あらすじとしてお読みください)*

夫:フリードリヒ二世。30歳〜35歳。職業はプロイセンの王様。即位して数ヶ月後に南の大国オーストリアに侵攻する、野心の塊のようなお方。妻のエリーザベトにオーストリアとの戦況を書き送っているが、今までの手紙の中で一番楽しそう。政治の都合でエリーザベトの兄を見捨てた時の彼女に対する言い訳(※逆ギレ)が政治哲学。エリーザベトの弟を戦死させた時のお悔やみの言葉が一行。彼女にキレられて送り直した時の手紙は、子供の言い訳のようである。さすがにエリーザベトの宮殿(シェーンハウゼン宮殿)を素通りしたときは、彼女から高度かつ優雅な反撃(大好物を贈られる)を受けた。
自分たちの間に子供が生まれないため、エリーザベトの妹のルイーゼ・アマーリエを、自分の弟で王位継承順位第一位のアウグストと結婚させる*1
そんなこんなで31通目から40通目では、政治・軍事的名声と反比例するように、夫としてグダグダかつポンコツになっていくフリッツくんの姿が見れる。

妻:エリーザベト・クリスティーネ王妃。27〜32歳。プロイセン王妃。上記のようなロックな夫を抱えているが、本人はプロイセン王妃として真面目に仕事をしているようで、フリードリヒのオーストリアに対する陰謀に協力していたりする。ところが当時のロシアの政治の都合が微妙だったため、フリードリヒは彼女の兄であるロシア皇帝の父(アントン)を見捨てる、さらには弟が戦死した時にもらったお悔やみの手紙が一行、宮殿を素通りされるなど、見返りがないこんな夫でいいんだろうか。とはいえエリーザベトも負けておらず、弟が戦死した折は、うまいこと周囲を動かして再度お悔やみの手紙を夫に書かせ(言い訳ばっかりだが)、素通りされた折にはフリードリヒの大好物のさくらんぼを贈って夫を謝らせている。凄まじく交渉能力が高い人の予感。大体の人と仲良くなれる性質らしく、男性であれば外交官として活躍したかも。
フリッツくん、お前の嫁、ただものではないかもしれないぞ
自分たちの間に子供が生まれず、フリードリヒの命で、妹ルイーゼ・アマーリエが、プロイセン王位継承順位第一位のアウグスト・ヴィルヘルムに嫁ぐ。

  • 1742年
    • 31.A LA MÊME.(王妃へ)
    • 32. A LA MÊME.
    • 33. A LA MÊME.
    • 34. A LA MÊME.
    • 35. A LA MÊME.
  • 1744年
    • 36. A LA MÊME.
  • 1745年
    • 37. A LA MÊME.
    • 38. A LA MÊME.
  • 1747年
    • 39. A LA MÊME.
    • 40. A LA MÊME.

 

*1:すでにフリードリヒの妹であるフィリッピーネが、エリーザベトの兄のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世に嫁いでいるため、ここにおいてホーエンツォレルン(プロイセン王)家とブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家は三重結婚関係を結んだことになる。

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作業するページ⑥

18世紀プロイセンの、変わった夫婦の文通を海藻(kaisou-ja)様と訳しています(⌒▽⌒)

私はプロイセン何それ美味しいの?フランス語??一瞬だけ第三外国語として大学で習ってたけど、いやまるっきり忘れたわまじ無理の亮〜〜!なうえ、豆腐メンタルですので、間違っていたら優しく教えてくだされば幸いです。

*メモ*

夫である人:フリードリヒ二世プロイセン絶対強大化させるマン(⌒▽⌒)8年くらい前にオーストリアをめちゃくちゃにしたはずなのに、このたび外交革命を起こされてオーストリアが仲間を引き連れグレードアップして帰ってきた。三枚のペチコートで囲まれている。本人は「人付き合いなんてもううんざりだ!」といわんばかりに公式行事の主催を妻のエリーザベトに押し付け、首都のベルリンから逃げてポツダムのサンスーシ宮殿で半ば引きこもり生活をしている。妻に対する手紙が、日記かツイッターかお知らせか謝罪文か言い訳かお金のことであり、グレートさに欠けるが、エリーザベトに対する生活保障は俺が死んでもしっかりするというタイプだと判明。宇宙で一番愛しちゃってる姉以外との兄弟仲が壊滅的に最悪。

妻である人:エリーザベト・クリスティーネ王妃。人付き合いが苦手な夫にかわり、公式行事は国王代理として主催している。シェーンハウゼン宮殿とベルリン王宮を行ったり来たりして過ごしている。オーストリアに縁が深いため(マリテレのいとこなのです……)、すごく微妙な立場なのかもしれないが、それをへし折ってプロイセンの皆様と仲良くできる、人付き合い能力の高いお方。夫に対して基本デレデレだが、あまりに夫が仕事ばかりに集中して、まったく家庭を顧みないときは容赦がないらしく、七年戦争直前の夫の行動にキレて喧嘩した。その時の夫の謝罪文が腹を抱えて笑っちゃうほど潔い。

 

フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳してみよう〜③

かなり変わった仲の18世紀プロイセンの王様と王妃様の文通を、海藻(kaisou-ja)様と訳してみました(⌒▽⌒)

残念ながら、私はたまたま18世紀の王妃様を調べていた時に書簡が公開されているのを見つけたもので、フランス語はおろか、18世紀プロイセンに造詣がありません。豆腐メンタルでもありますので間違いがあれば優しくご教授ください。

*メモ(あらすじとしてお読みください)*

夫:フリードリヒ二世(大王)。27〜8才。プロイセンの新国王。1740年5月に即位してすぐ、宇宙で一番愛しちゃってる姉(ヴィルヘルミーネ)の体調不良を案じてバイロイトへ向かうが、そこで姉からエリーザベトへの贈り物(扇子)を預かっていたにも関わらず、ストラスブールにお忍びして男友達と遊びほうけ、ヴォルテールに会いに行ってしまう。
エリーザベトをシェーンハウゼン宮殿に住まわせるため、修理する準備をしている。
では夫婦仲が顔も合わせたくないほど険悪なのかというと微妙で、エリーザベトに「優しさを感じない」といわれてショックを受け、言い訳しまくり、引きずりまくったりしている。
1740年12月、オーストリアシュレジェンへと侵攻し、ロシア皇帝の父を兄に持つエリーザベトを政治的(オーストリア・ロシア対策)に利用していく。

妻:エリーザベト・クリスティーネ。24〜5才。プロイセン新王妃。フリードリヒとはフランス語で文通している。オーストリア・ロシアと縁戚関係にある名門ブラウンシュヴァイク家の出身で、マリア・テレジアはいとこ、ロシアのイヴァン6世は甥。最近、フリードリヒからの手紙が、ツイッター並みに短くなったため、静かに穏やかにフリードリヒにキレた。
1740年12月にフリードリヒが、彼女のいとこであるマリア・テレジアの治めるオーストリアに侵攻し、非常に微妙な立場になる。また、イヴァン6世の父である兄のアントンと接触するようフリードリヒに指示されている様子がうかがえる。
人付き合いがよく、シェーンハウゼンでは、フリードリヒの妹たちや、のちのロシアのエカチェリーナ2世となる少女の母親を招いて女子会を開いている。

  • 1740年
    • 21. A LA MÊME.(王妃へ)
    • 22. DE LA REINE.(王妃から)
    • 23. A LA REINE.(王妃へ)
    • 24. A LA MÊME.
    • 25. A LA MÊME.
    • 26. A LA MÊME.
  • 1741年
    • 27. A LA MÊME.
    • 28. A LA MÊME.
    • 29. A LA MÊME.
    • 30. A LA MÊME.
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