Don't mistake sugar for salt.

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑦

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前の記事

halucy0423.hatenablog.com

読んでる本

 

更新が滞っていました。私事で忙しかったのと、この記事を書くのに、相当迷っていたからです。

なんでか。

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I田M成さん

この人のことを書かなければいけないからです。

 

石D三Nのことを書くなんてクソ面倒な!!!!

細川ガラシャ細川忠興よりファンが多そうじゃん。困るんだよね〜

  • 理性を失った狂気の沙汰
  • 恨みを抱くにふさわしい
  • 同担拒否過激派、アイドルの夫をかばう

理性を失った狂気の沙汰

本書はちょっと古いので、石田三成細川ガラシャの死に主体的に関わったとしています。が、ついこの間知ったのですが、世の中的には「石田三成細川ガラシャの死に関わっていない」「東軍諸将の妻女を人質として召集しようと考えたのは前田玄以増田長盛長束正家の三奉行」という説が出てきているようです。

ではあっても、戦争とは正気をなくす所業なんだと感じますね!
どの戦争も、加古隆の「パリは燃えているか」をBGMにしなければいけない凄惨な事件はあるんだと。それを起こしまくっていてみんな感覚が麻痺している戦国時代とはクソな時代、ホッブスの言うところの「自然状態」に近い時代であり、死んでも戦国時代には行きたくない(※行けない。)と!!
玉子殺しが、島津家や立花宗茂細川忠興など、生きる暴力装置といって差し支えない存在によって行われたなら、これほど衝撃的ではなかったかもしれません。でも、石田三成、ないしは前田玄以増田長盛長束正家という、行政(行政とは政府の暴力抑制装置ですよね)(ですよね……?)に力を発揮した人たちが、人の妻を断りなく勝手に襲い死に至らしめました。

サバトじゃーーーーーー!!!ミッドサマーじゃーーー!!!狂気の沙汰じゃーっ!!
アリ・アスター監督が映画にしそうな題材じゃーーーッ!!!

政府の治安維持機関である京都所司代をしたこともある人々なのに。いや、石田三成、ないしは前田玄以増田長盛長束正家からすると、細川忠興をはじめとした東軍の人々の方が常識はずれだし約束破りだし野蛮だと考えていたでしょう。確実に。

どっちもどっちなのは確かですが、まさに理性を失った狂気の沙汰です。


現場を見ていた玉子の侍女「霜」が、玉子の死に際を、半世紀ほど経った頃に、回想しています。「霜女覚書」といいます。

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日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑥

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*挙動が少しおかしかったのでブログのデザインを変更しました*

前の記事↓

halucy0423.hatenablog.com

 

どんどん終盤に近づいています……前の記事ではキリスト教徒になった玉子が離婚を望み、「どうしたら細川忠興と離婚できたのか」ということをメモしていきました。

正直に申し上げると、ここまで本書を読みながら、細川忠興と玉子の周りを調べてきて。

愛じゃ、ハリー。愛じゃ。

という感想を抱いています。

細川忠興は復縁して以後、妻の地位に指一本触れさせていないのですよね。側室の松の丸殿に取って代わらすこともしていないし、豊臣秀吉の養女ももらってないし、細川の地位を脅かすハイリスク案件はことごとく潰しています。
身内に明智光秀の遺児のいる細川を存続させるのは至難の業だったでしょうが、それでもやりきったこと、本書でも述べられているように凄まじい政治手腕を感じます。

玉子も同様です。彼女は、父が謀反を起こした直後、父を倒した人が天下人、関白になってしまったので、相当生き辛かったと思うのです。自分が正しいと思ったこと、価値観、大好きだった人、親族を周りに全て粉々に否定される世界です。
父の記憶が黒く塗りつぶされ、歪んで書き換えられていくのです。

狂ったり、心労で病がちになり、亡くなったりしてもおかしくなかったのではないでしょうか。それでも、なんとかキリスト教に助けられてでも踏みとどまったこと、細川忠興と子供たちを深く愛したかったのだと伝わってきます。

愛じゃ、ハリー。愛じゃ。

読んでいる本 

  • 目をご絵に向けながら、神のもとへ帰った
  • 北国の話(雑)
  • 細川家たいへんかもしれない

目をご絵に向けながら、神のもとへ帰った

ウィキペディアによれば細川忠興は、ガラシャに信仰を告白された*11595年に屋敷内に小聖堂を作っていたそうです。へー。じゃあ、1599年頃修復していたのは、それがちょっとボロくなったのかな。

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玉子のために礼拝堂を作ったり立て直したりする細川忠興

玉子が信仰を告白し、細川忠興がこんな感じで玉子のために屋敷内に小聖堂を作っていた1595年から数年間は、この夫婦に残された僅かながらの穏やかな時であったかもしれません。夫婦関係という点では。
異説もありますが、1598年、玉子は10年ぶりに末子・萬を生みます。

真田丸でヒロインのきりが玉子に仕えていましたが、あの細川忠興が丸くて穏やかだったのはこの時期だったからだと推察されます。

だけどな。

*1:してなかったんかい!!!!!!

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日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑤

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前の記事!

 

halucy0423.hatenablog.com

謎の少年「ジョアン」君についてネットでつらつら見ていたのですが、キリスト教徒のためのニュースサイトに、細川ガラシャの子供たちについての特集がありました。

www.christianpress.jp

こ こ で も、宣 教 師 の 皆 さ ま 大 混 乱 の 巻 

忠利、何回洗礼受ける気だ。おい

ジョアン忠利」とか「二人の息子に洗礼を授け」、「忠利はまだ異教徒で……」とか、色々大混乱していますが、1606年当時、20歳の細川忠利が「何とかしてキリシタンになりたい」と告白していることから、この時点で洗礼を受けてはいないと自覚している*1と考えて良さそう。
なので、謎の少年「ジョアン」君は、自動的に兄である細川興秋と推定できます。

長兄の忠隆が細川家の家督を継ぐことになっている以上、世間の皆さんは忠隆の行動に注目はすれど、興秋と忠利の行動にはさほど注目しておらず、混同して伝えられていたことは、多々あったのではなかろうかなと考えました。

ひょっとしたら、当時の世間の皆さんは、興秋と忠利の区別をつけるのが難しかったのかもしれない。……宣教師の皆さんも、日本の皆さんも。
年齢も非常に近く、同母兄弟だから、容姿も相当似ていたでしょう。

さすがに細川家の家臣たちは見分けがついたでしょうが、忠興の親友である高山右近蒲生氏郷も、「あれ。忠興殿の下の男の子二人、どっちがどっちだったっけ」と深く考え込んだことがあったかもしれません。

ところが、ジョアン君が洗礼を受けた時、彼の両親には夫婦関係の危機が起きていました。

↓読んでる本。今回、キリスト教の結婚関連のことは他から入手した情報をいれず、かなりこの本に準拠しているので、この内容が面白かったら買うことをお勧めします

 

  • 細川ガラシャは離婚がしたい!!
  • そもそも、細川忠興と玉子は「婚姻関係」なのか?
  • 細川忠興と玉子の結婚は「認められる」のか?
  • たまこ「どうやったら離婚できるのよ!!!」
  • こんなに大騒ぎしたんだけれども

細川ガラシャは離婚がしたい!!

無事洗礼を終えた明智玉子=細川ガラシャは、とある希望を打ち明けるようになります。
イエズス会のオルガンティーノ司祭の話によると。

彼女は一通の書簡を寄越したが、それが私にとって大きな心配以上のものとなっている。なぜなら、彼女は司祭たちのいる西国地方に行きたいと述べているからである。

(本書、ルイス・フロイスが引用したオルガンティーノの書簡による) 

つまるところ、「細川忠興と離婚したい」と告白しだしたのです。
西国、つまるところ九州の長崎に行き、信仰生活を送りたいと考えていたようです。

どうして離婚したくなったのかは、細川忠興の過度の監視が苦しくなったからとか、明智光秀の娘として生きることが辛くなったからとか、いろいろあるようです。
細川忠興にドメスティックヴァイオレンス気質があったとも、玉子の目の前で侍妾五人を持ったとも、彼がキリスト教に入信していた侍女の鼻を削いだとも、キリスト教を信じる侍女を凌辱したとも……いわれていますが、あんまりよくわかりません。
これらの細川忠興が危ない話はイエズス会の報告に基づくものであり、彼らは、玉子ちゃん(戦国キリスト教系アイドル)を愛でて讃えているので、当然ですがアイドルの夫である忠興にきびしいげふげふ玉子が、キリスト教では重罪に当たる「離婚」を決意するにあたり、罪を犯してでも夫と離縁したがった彼女の痛みを慮り、気性が激しい人として評判だった細川忠興に問題があるのではないかと見たからです。たぶん。
いや、アイドルの夫だからではないとおも……

そもそも、細川忠興の友人の蒲生氏郷前田利長織田信長の娘を正室にしていて、ひょっとしたら、二人が復縁したことを白い目で見るような空気もあったかもしれません。

キリスト教の洗礼を受ける直前、いきなり1587年の7月に「バテレン追放令」が出されて*2高山右近が改易になるほどだったので、「信仰も捨てられないし、自分が細川家から出てった方が、子供や夫に累が及ばないよね」と思った可能性もあります。

ともかく、まだ幼児である長姫*3、忠隆・興秋や、乳児である忠利をおいてでも、細川忠興と離婚をしたくなる・しなければいけない、相応の深刻な理由があったのでしょう。

あまりよくわかっていないので、突っ込むことはやめます。
キリスト教屈指の神学者・聖アウグスティヌスはこう言っています。

彼らは私の全ての病をいやすことができるとでもいうのでしょうか。他人の生活については好奇心から知りたがるくせに、自分の生活は改めようとしない怠惰な連中!(『告白』第10巻、第3章)

それよりも、玉子は細川忠興と離婚できるのか、というところを見ていきましょう。

キリスト教の教義では、もちろん離婚することは許されません。オルガンティーノが心配以上の感情を抱いたことは当たり前です。

ですが、日本とヨーロッパでは結婚の仕組みが違うという前提があります。

キリシタン宣教師は)ヨーロッパ本国とは異なる様々な価値観、とりわけ婚姻の単一性(一夫一妻制)と不解消性(離婚の禁止)を説くカトリックの婚姻観とかけ離れた、彼ら(日本人)の結婚観に悩まされている。(本書より)

しかも、玉子はキリスト教徒だけれど、細川忠興キリスト教徒ではありません。そういう二人の離婚ってややこしいことになんない?

んん??

ここからは玉子と細川忠興が、離婚が認められる関係かどうかメモしていきます。
妻恋しさに周囲を敵に回す覚悟で嫁を味土野に逃がしたり「我が女郎花」と嫁に和歌で詠んだりする細川忠興の皆さんは自衛していただければと思います!

*1:細川忠利がめちゃくちゃ忘れっぽくて、自分が洗礼を受けている事をすっかり忘れていない限り

*2:本当にいきなり出されたそうで、玉子が受洗を決意した1587年の2月の段階では細川家の不利益になることはあまりないはずでした。

*3:玉子と細川忠興の長女

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作業するページ⑨

プロイセンのフリードリヒ大王とエリーザベト・クリスティーネ王妃の文通を訳しています。

  • わりと仲睦まじい王太子時代、
  • エリーザベトと別居して「優しさを感じませんわ〜!」と手紙で殴られる大王、
  • 軍事・政治的名声と反比例するように、まるでダメな夫(=まだお)になっていく大王と優秀な王妃として開花していくエリーザベト、
  • 大王に素通りされたらさくらんぼ送りつけてくるエリーザベト、
  • エリーザベトにお金が支払えない大王(※わりといつも)、
  • オーストリア*1と戦争するときはかならず喧嘩しだす二人、
  • 弟アウグスト王子の死に際し夫婦初の連携プレーを取る二人、
  • 七年戦争がしんどすぎて自殺を考えた時にエリーザベトに「私のすべてはあなたのものです」といきなりデレだす大王、
  • エリーザベトの母親(=姑)が嫌いな大王、
  • 自分死後のエリーザベトの生活保障はきっちり決めておく大王、
  • エロいふしだらな女は苦手でエリーザベトに紹介する気のない大王、

と色々面白ネタ満載でしたが、

もう老いてきてしまってお互いを労わりあう文面が目立ってきているようです。


*1:エリーザベトの従姉妹のマリア・テレジアが君主をしている

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』④

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これの続きです!

実のところ、細川忠興正室であるところの明智玉子(細川ガラシャ)に関して、日本の史料はそんなに残っていないようです。女性だからというのもあるでしょうし、明智光秀の娘だからというのもあるかもしれません。

細川忠利と細川忠興の手紙はうざったいくらい残っているそうなのですがね。

だから、玉子と細川忠興もうざったいくらい手紙を交わしていた可能性があります。か、逆に常に一緒にいて、手紙を交わす必要がなかったとか(忠利と忠興は別居しているので、手紙で連絡し合う必要がありました)。

ちなみにですが。
細川忠利の息子の結婚相手を探している時、忠利に対して忠興は「有力者と縁を結んでおいて良いことは稀だ(=苦労する)」と持論を述べています。こちらの本によれば、この考えの背景には、有力者であった明智光秀によって新婚生活を壊滅させられた細川忠興の実感が込められているとしています。

ところが、この本に玉子は後ろ姿程度しか出てきません。
主人公二人の妻であり母なのですが、本当に彼女に関する言及や史料がないようです。

 

イエズス会の史料でこそ、玉子の息遣いを感じられるというのは、かなり面白い現象です。

 

読んでる本↓

そんなわけで、洗礼を受けようと夫に相談もせずに大坂の教会に行っちゃった玉子。ところが神父は洗礼を拒絶します。

玉子「なんでやねん」

※玉子は関西弁話者だとおもわれます

これには当時のイエズス会を悩ませていた深い理由があったのです。

イエズス会「側室って何じゃぁぁぁっぁ!?!」

イエズス会の宣教師たちは、高貴そうな女性が突然教会にやってきて、洗礼を受けたいと志望してきたことについて、困惑していました。

彼女は身元を一切明かさなかったため、秀吉の側室ではないかと疑ったのです。
秀吉の側室に勝手に洗礼を施しては、秀吉の気を損ねることになりますし、また、側室に洗礼をするのは当時のキリスト教の教義としては躊躇しなければいけませんでした。

側室に洗礼を施すのの何がそんなに悪いのか。
結婚、という問題に抵触するからです。

そもそも、当時の日本人の結婚観と、ヨーロッパで培われてきたキリスト教の結婚観は、非常に異なるものだったようです。

キリスト教では、結婚というのは神が特定の二人を結びつけるものとされており、特にカトリックでは人生で七つだけ、目に見ることのできる神からの恵み・恩寵である尊いこと=「七つの秘跡」と呼ばれるものがあるのですが、そのうちの一つが「結婚」です。
つまるところ、凄まじいくらい結婚を神聖視しているし、すばらしいことだと考えています。だから離婚に対して、凄まじく大きなハードルがあるんです。

日本の場合、特に上層部は、それこそ、細川忠興と玉子のように、当時の政治状況が変われば離縁することがあり得ました。また、一夫多妻制社会でしたから、男性は複数名妻を持つのが当然でした。
具体例を言えば、当時、玉子のことを「私の女郎花」*1と、秋に咲く愛らしい花にたとえるという、どう考えても小っ恥ずかしいことをしている細川忠興にも、松の丸殿という側室がいて、彼の子供を生んでいました。

イエズス会会士「oh……ドウイウコトナノ」

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日本の結婚制度に驚くイエズス会の人々の図

カトリックからすると、側室という存在は夫の「不倫相手」となり、結婚の神聖性を阻害するものとなります。こういう存在は、聖書によって洗礼を禁じられているわけではありません。が、洗礼するということは「自分の背負っていた罪をその背から落ろす」ということなのに、洗礼しても「罪深い」関係を続けるのは、好ましくありません。
そんなわけで夫から側室は離れてもらわないといけないのですが、今度はそうなると「離婚の禁止」に抵触します。

あ……イエズス会士の皆さん……
かたまった……

この問題では日本のお隣・中国で布教するときにも起きており、「側室」に洗礼を施すかどうかはそうとうな問題となっていたようです。

そこは現地の文化にキリスト教の教えを合わせていくスタイルを取る「適応政策」を敷くイエズス会ローマ教皇にお伺いを立て、側室・妾でも「(正室と夫との)結婚の単一性を阻害するものでなければ洗礼OK」としてもらいました。

異文化接触ってこういう感じで進んでいくのですね。

でも、側室の洗礼に関しての教皇様の御触れが出るのはもう少し先のこと。

イエズス会の人たちは、玉子が帰るあとをつけていき、 細川家の正室だということが判明したので、心配は杞憂だったということになりました。

彼女は「キリストにならいて(ジェルソンの書)」という「第二の福音書」ともよばれる信仰指南本をもらい、これで信仰生活を深めていくことになります。

玉子自身は洗礼を受けられないまま、細川家の彼女の周囲の人は、彼女に影響されてどんどんと洗礼を受けていきます。彼女は外に出ることができなかったので、教会に行けず、洗礼できなかったのです。
その間、彼女は周囲の人間を司祭の元へ遣わし、キリスト教の教義について理解を深めていきました。

修羅パンツなのか日本の風習なのか

イエズス会の人々は、玉子がまた教会に来るのを待っていたでしょうが、彼女は細川忠興から監視下に置かれていたために、来ませんでした。これについて、彼らの中で情報が錯綜しています。

①日本の風習だからね説

プレネスティーノ司祭は、「この国の習慣に従えば、夫の不在中に夫人は警護を受けていて自由に外出することは許されない」と述べています。高山右近と親密で、細川忠興を通じてキリスト教の教えを知ったんだともプレネスティーノ司祭は言っています。

細川忠興、修羅パンツ説

ルイス・フロイスの描く細川忠興

www.youtube.com

『日本史』を書いたルイス・フロイスは「この若殿(忠興)の妻に対する過度の嫉妬と、一般の日本人との間の習慣は大きく異なっており、彼が彼女に行った極端な幽閉と監禁は信じがたいほどであった」と綴っています。細川忠興キリシタンが嫌いだという情報も付け加えています。

さて、本書は無批判に②を重点的に論じていますが、フロイスのいうこととプレネスティーノのいうことには細川忠興像に大幅な差異があります。修羅パンツか、妻を心配する夫か。

織田信長の間近で仕え、その妻女を見てきたであろうルイス・フロイスにとって、玉子の置かれた状況というのは異常でした。一方で、細川忠興キリシタン嫌いかというとそうでもなく、高山右近蒲生氏郷と大変親しい関係にありました。

では、細川忠興は妻を普通に扱っていたのかというと、これも疑問符がつくようです。身辺警護かつ監視役である人がいました。本書では、小笠原少斎であったといいます。

さて、三歩くらい引いてみると、明智光秀の遺児が大坂、ほぼ日本の中枢にいるのに、なにもしないというのもかなりリスキーです。細川忠興は「江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社文庫)」を読んでいると、リスクを全力で回避する性癖*2があるようです。
玉子は女性で細川忠興正室なので出家させられずに済んでいますが、男性で細川家の御預人の身であったら、厳しい監視下におかれたはずです。

時代は下るので事情は少し違うと思いますが、ただ徳川忠長が主君だったというだけで、稲葉正利という武士が細川家(細川忠利)の御預人になっています。彼は非常に丁重に扱われた反面、外に出て自由な行動をすることはできなかったとか。
玉子を彷彿とさせる人です。

だから、正室ではあるけれども、御預人のような扱いを受けていたのではと考えたりなんぞします。
お互いにとって、非常に難しい関係になってしまったものだ。幸せたっぷりの新婚夫婦だったのに。

こういう宙ぶらりんな関係では、玉子が気まずくなっていきます。細川忠興も精神的に疲弊していくでしょう。彼女が、今後の子供の将来のこととか、様々なことを勘案して、忠興との離婚(細川家と縁を切るということになります)、その後の出家隠遁生活を望んだとしても不思議ではないかもしれません。

本書ではあたりまえですがそこまでは突っ込まれていません。おらの妄想だ

ジョアン君、誰

なかなか洗礼できなかった玉子ですが、教会訪問から数ヶ月後に、清原マリアというすでにキリスト教徒だった侍女を通じて洗礼を受けます。

その後、彼女は1587年11月、自分の洗礼についていろいろと動いてくれたグレゴリオ・デ・セスペデス神父に手紙を書いています。

たとえ草木がなくなることがあっても、私が神を信じる気持ちは動くことはありません。

 その手紙で、彼女は自分の二番目の息子が病であると記しています。

(3歳の男の子である)二番目の息子が重病になり、生命の希望が完全になくなり……(略)そこで(清原)マリアが密かに彼に洗礼を授け、彼をジョアンと名付けました。

ところが、次男である細川興秋は、当時、数えで5歳なのです。

んん!?

もし、1583年生まれの興秋を満年齢で計算したとしても、11月後半うまれか12月生まれでないと3歳とはいえません。3歳で押し通せば、本書のように、1582年中に懐妊したとはいえないことになります。
当時は数え年齢の世の中だったでしょうから、 数えで5歳であればちゃんと五歳と記したはずです。

ぬぉぉぉ!!

じゃあセスペデス神父が、うっかり間違えたんだと疑ってみましょう。

セスペデスはスペイン人。スペイン語で3と5は

3歳=tres(トレス) años...
5歳=cinco(キンコ)...

 

聞き間違えるかなぁ……(哲学的な問題)

ジョアン君誰!?ジョアン君!!!!!誰!!!

上智大学第二代目学長のヘルマン・ホイヴェルス神父は、「三男の忠利か……?」という説を提唱しています。忠利は当時数え2歳。それを間違えたんだと。

よし。

スペイン語で2と3は

2歳=dos(ドゥス)años
3歳=tres(トレス)...

ちょっと間違えそう。

この前年の12月に生まれた細川忠利はまだ十一ヶ月くらい。満年齢だと1歳になっていません。だから、玉子が息子の死を予期し(乳児が死ぬのは珍しくないことでしたから)、息子の霊魂が救われてほしい(=たった十一ヶ月で死ぬ赤ん坊の命を意味あることにしたい)から洗礼を受けさせたいと考えたのは、不思議ではなさそうです。
細川忠利は相当病弱であり、大人になっても、細川パパ興から、養生法を指南されたりしています。

この説でいけば、セスペデスが二度も聞き間違えちゃうウッカリさんとなります。

そんなことはないはず、と細川興秋の方を向いてみると、彼は10歳の時に後継ぎのいない叔父・細川興元細川忠興の弟)の家に養子入りし、そのあと、細川興元キリスト教徒になっています。興秋に布教されたという話があるそうです。

10歳児に布教されちゃう叔父さん(28歳)、こんな感じだったに違いない

www.youtube.com

でも、細川興秋は、最後、切腹(=自害、キリスト教では禁じられている)をして死んでいるのです。同じ職場(大坂の陣)で働いたキリスト教徒の明石全登は自殺を嫌がって、行方不明になっているのに。

ジョアン君、マジ誰。(哲学的な問題)

 

ジョアン君が誰だかわからないまま、
次は本書の核心にせまっていきます。

 

 

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*1:「なびくなよ我が姫垣の女郎花男山より風は吹くとも」という和歌を玉子に詠んでいます。……風流だねえ。玉子は「なびくまじ我がませ垣の女郎花男山より風は吹くとも」と鸚鵡返しという和歌の手法の一つを使って返しています。……風流だねえ刀剣乱舞の歌仙兼定も鼻高々の雅な夫婦。細川家にはたぶん常にショパンが流れている

*2:あんまりに全力で回避するので、すでに、趣味か性癖だと思ってる。

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』③

 

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これのつづき

読んでる本! 

そんなわけで玉子は豊臣秀吉に復讐心を燃やす漢気溢れる存在となってカムバックしてきました。

玉子とは一見関係ない九州の話(雑)。

玉子がcomebackした2年後の1586年12月、彼女はまた子供を産みます。これが未来の細川忠利です。ところが、1587年、細川忠興は、忠利の首がすわるかすわらないかという天使の時期に九州に駆り出されることになりました。九州征伐です。

世情にプライベートを常々犠牲にさせられる細川忠興


何故また細川忠興はプライベートを吹っ飛ばされてしまったのか。

このお方のせいです。

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大友宗麟細川ガラシャ高山右近と並べて書かれる敬虔なキリスト教

本能寺の変が起きた頃、九州はだいたい三つに分かれていました。大分あたりを拠点にしている大友家、鹿児島を中心とした島津家、佐賀あたりに勢力を持つ龍造寺家です。

ところが1584年、ちょうど玉子が細川家に帰ってきた同じ年、龍造寺家は沖田畷の戦いで島津家に大敗を喫し、壊滅的な状態になってしまいます。
となると、のこったのは大友家と島津家のみ。実は、これより前の1578年、大友家は島津家に耳川の戦いというので負けておりました。かなり不利。

さらに、1585年、大友家は不運なことに、西側(つまり佐賀に面する福岡)の守りを固めていた最強の重臣立花道雪(本名・戸次鑑連)を亡くします。すでに佐賀を食っている島津家は「チェストォォォ!!」とその隙間に攻め込んで行きます。

もっと最悪なことに、1586年、立花道雪と肩を並べて西側の守りを固めていた高橋家の当主・高橋紹運が島津家に攻められ、戦死、高橋紹運の軍は全滅します。これを岩屋城の戦いと言います。
島津家は、残る立花道雪の後継である立花宗茂を目指して進軍していきます。

立花宗茂は当時18歳くらいの少年。島津家の、佐賀と福岡を鹿児島、いや九州全土を鹿児島にしようという計画の完遂が間近に迫っていました。

さて、大友家は弱っちいわけではなく、もともとかなり強いのですが、どうしてこんなに島津家が強いかというと、わけがありました。

そう、島津家が強かったのです。
おっと、島津家が強すぎて小泉構文になってしまったぜ

恐ろしいお家芸釣り野伏せ*1というものを駆使し、耳川の戦い沖田畷の戦いに勝ちました。

このまんまだと福岡も大分も鹿児島になってしまいます。
とんこつラーメンにさつまいもが投入され、別府温泉はさつまいもを茹でる時のお湯に使われる可能性が非常に高まってきました。

ところが、まだ小童に毛の生えた年齢である立花宗茂は、「とんこつラーメンさつまいも味は!!!俺的に無理ッ!!!!!」と言わんばかりに頑張ってしまいます。

立花宗茂は、釣り野伏せとか平気でしてくる島津家相手に、逆に奇襲を仕掛け(……仕掛けられるんだ……)、島津家に全滅させられた高橋紹運のいた城を奪還するなど(……奪還できるんだ……)、意味不明な強さを発揮します。

でも、大局的に見れば、明らかに大友家は負け一直線です。

なので、大友宗麟は、立花宗茂が時間稼ぎをしている間に、島津家へ国崩しなる大砲をドカドカうちながらも、とある作戦の準備をしていました。

これ。

www.youtube.com

当時、関東の北条家と東北の伊達家など以外は手中に収め、天下人の座に登っていた豊臣秀吉に出兵を要請し、島津家を「ほとんど日本全土の電力兵力で潰そう」と考えたのです。

宗麟的に島津家はラミエルだったのだ

こうして、細川忠興大友宗麟の要請により死地・九州へ連れて行かれてしまいました。

九州征伐のその後ですが。
最初は釣り野伏せを駆使して秀吉側に抵抗していた島津家ですが、秀吉の意を受けた黒田官兵衛が、広島・山口から関門海峡を使って毛利家を連れてきたことで風向きが変わります。
隠居していた毛利家の名将・吉川元春が「戦場って楽しいなぁーーー!!!!」と言わんばかりに、福岡の小倉城あたりで、甥の毛利輝元や弟の小早川隆景たち、家族みんなで楽しそうに、ちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返していました。
毛利家に関わるとろくなことがありません!!迂回迂回!!!

そんなわけで、島津家は福岡らへんではなく、大分の方を重点的に攻めようとしましたが、そこに細川忠興を含めたほぼ日本全土の大軍が投入されたので、島津家は沈静化しました。

魂の不滅をもとめる玉子

細川忠興がカオスの地・九州へ赴いている間、玉子はとある場所を訪れていました。

イエズス会が作った、大坂の教会です。

当時、玉子は本書曰く「異様な厳しさ」で細川忠興によって監視・軟禁状態に置かれていました。

当時の彼女の立場を考えてみれば当然の措置だったでしょう。
同じく織田信長に謀反した荒木村重の妻女は殺害されています。前出の立花道雪の妻は主君の大友宗麟に謀反を起こした人の娘だったので、即座に離縁されています。これらは、玉子のifです。

さっきまで新婚生活をぶっ潰された細川忠興とか、忠利と引き離される細川忠興などというネタを披露していきましたが、玉子も新婚生活を世界中から潰された挙句、当時、一番可愛い盛りだった長女・長男と引き離されているのです。

本書に掲載されたイエズス会の司祭の書簡を見る限り、玉子は、今まで生きてきた人生の価値観そのものに対する大幅な転換が必要だったのではないでしょうか。

彼女は、魂の不滅を否定する日本の宗派に属していた。それゆえ、この夫人は深く憂愁に閉ざされ、ほとんど現世を顧みようとしなかった。夫人の態度は、夫を心配させることが少なくなかったので、二人はしばしば言い争っていた。

 (本書、イエズス会司祭プレネスティーノの書簡より)

プレネスティーノ司祭の書簡には、仲睦まじい夫婦らしい夫婦をしている細川忠興と玉子の姿が描かれています。 

「魂の不滅を否定する日本の宗派」とはどこでしょう。
細川家はどうやら臨済宗宗徒のようです。

細川忠興の祖先にあたる細川頼之は幼少期、夢窓疎石臨済宗のスーパーガーデナー)に師事していたらしく、熱心に臨済宗を信仰していました。その弟で、直接の祖先である細川頼有は建仁寺の住職に傾倒し、熱心な臨済宗信者でした。

祖先が臨済宗宗徒だからと「魂の不滅を否定する日本の宗派」が臨済宗とは限りませんが、可能性はたかそうです。

臨済宗といえば、禅宗の一つで、「自力」の教えで有名。
「自力」とは、座禅をして悟り、自分自身が仏になるのだという思想です。現在でも禅がマインドフルネスに応用されているので有名ですが、自分自身を見つめて行くことを重視しました。この考え方は、鎌倉・南北朝期の武士たちにとって非常に需要の高いものでした。
一方、浄土宗や浄土真宗は、仏や菩薩の加護こそが人を救う、仏・菩薩と自分の関係を重視したため、「他力」という思想を打ち立てました。こちらは神による恩寵が人間を救うとしたキリスト教とよく似ている考え方で、よく、浄土真宗親鸞イエス・キリストは並べて論じられることがあります。

さて、臨済宗をはじめとした禅宗と、キリスト教における「魂」の考え方は根本から異なっています。詳しいことは近所の臨済宗のお坊さんと神父さんに聞いてどうぞ。

九州征伐の説明以上に雑にメモしていきます。
キリスト教において、禅宗をはじめとした仏教の「空(=この世の全てのものには『確固たる何か』はない)」の思想は、魂(=キリスト教においては「私」を規定する『確固たる何か』)の不滅を否定するものと受け取られました。禅宗からしても、キリスト教は、確固たる何かではない自己の存在に執着しているように見えます。
宗教対立が起きる原因がお分りいただけただろうか!!ガッテンガッテン!!!

宗教対立とは、人の生き方・価値観の対立の最たるものです。

細川忠興は戦が終わったあと、座禅組んで「あぁ〜、この世まじやっぱ空だわ」と体感することで救われたかもしれませんが、玉子は、この禅宗の考え方のどこかに絶望し、この世が本当に虚しくなってしまったのでしょう。
だから、キリスト教を求めたと考えて良さそうです。

どこに引っかかったかは、神と玉子のみぞ知る、です。
ただ、プレネスティーノがわざわざ「邪教」とかではなく、「魂の不滅を否定する日本の宗派」と言っていることから、そこにヒントがありそう。

愛する嫁に彼の話をしまくってキリスト教に入信させるほど高山右近が大好きな細川忠興

玉子はどこでキリスト教を知ったのでしょうか。

意外なことに、この人が情報を伝えました。

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細川忠興。親友の高山右近が好きすぎる。

越中殿(※細川忠興のことです)は(高山)右近殿と親密な間柄であった。越中殿は、右近殿から神とキリスト教に関する様々な話を聞き、この問題について夫人に語った。
(本書、イエズス会司祭プレネスティーノの書簡より)

細川忠興が家で親友の高山右近の話をしていたので、玉子はキリスト教を知ったのです。
高山右近は、細川忠興に、非常に深いところまで話していたと考えるべきですし、忠興は、家で、暇さえあれば右近の話をしていた可能性が高いといえるでしょう。

 

そして、忠興がいない時、洗礼を受けたいと満を持して大坂の教会に向かった玉子。

 

ところが。

玉子は、司祭から洗礼を受けることはできませんでした。

 

ぬほ!??!!

というわけで、次へ続く! 

 

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*1:味方を三隊に分けて、一隊だけ敵の前方に配置し(これが囮)、全力で戦って負けたふりをし(!?!!?デキルノカソンナコトガ)後退、敵を誘う。他の二隊は伏兵として配置しておく。全力で負けている囮を追いかけてきた敵を、囮と伏兵二隊のちょうど中央点におびきよせる(!?!デキルノ?!)。すると三隊で敵を包囲できてしまう。敵は殲滅される……という戦法。非常に有効だけれども、兵士の演技力や地形や指揮官の素質に左右されて難しいはずなのに、島津家はやっちゃう

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』②

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halucy0423.hatenablog.com

前の記事はこれ。

読んでる本! 

リア充爆発しろ」レベルの幸せな結婚生活を送ってきた細川ガラシャ明智玉子)と細川忠興

ですが、結婚生活が爆発四散します。

これのせいでな↓

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本能寺の変であろう!!本能寺の変が玉子たちの結婚生活を変えたのじゃ!!!!!

イエズス会の司祭、日本(布教地)が好きじゃないと立場を失う

ひとまず、当時の日本におけるキリスト教イエズス会)の活動を振り返りましょう。

さて、本書にないことを補足していくと、イエズス会は、ザビエルの死後、日本での布教活動を地道にすすめていました。

ところが、織田信長在世中、日本での布教活動の責任者であったフランシスコ・カブラルは、日本人と親和しようとせず、日本人に人種差別的な言動を繰り返していました。
この状況を重く見たイエズス会の巡察師(視察係)のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、カブラルを批判して日本の布教活動の任を解きます。

イエズス会の基本方針は、「適応主義」、つまり「布教した現地の文化を尊重しつつキリスト教を布教していくこと」だったので、その方針に反して、日本人に親和しないカブラルは、日本での布教に適さないと考えたのです。

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ヴァリニャーノ大先生。現地の文化に適応することが大事だと説いているのだろう。

そんなこともありましたが、他の宣教師は「適応主義」に従い、着々と日本人と親和していきました。
日本語がやたらと得意なルイス・フロイスや日本が大好きなオルガンティーノがそれにあたります。たしかに、その国に興味があって、知れば知るほど現地人が好きになっていき、その文化を尊重できないと、その国に居ても楽しいことはないし、ましてや、人の心を動かす布教活動はできなかったのではないでしょうか。

織田信長は、本書によれば異国趣味のために、イエズス会の宣教師を庇護し、ルイス・フロイスをそばに置くようになります。

高山右近「神よ!!スーパーアルティメット懺悔をいたします!!私は親友の新婚生活を壊しましたぁぁぁっ!」蒲生氏郷「私もです!!神よぉぉぉ!!!」

1582年、明智光秀織田信長本能寺の変を起こした時、様々な人々が様々な岐路に立たされました。

その一人が今の大阪の高槻あたりを治めていた高山右近です。

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高山右近、実は細川忠興大親

敬虔なキリスト教徒で、カトリック福者にも認定されました。列聖活動中だそうです。

www.cbcj.catholic.jp

当時のローマ教皇、シクストゥス5世が高山右近にあてた感動的な手紙から、高山右近の人柄が垣間見えます。

わたしはあなたに勧告などいたしません。あなたは、ことばに尽くせない聖徳に恵まれているからです。わたしはあなたをあらためて励ましたりなどしません。あなたはすでに情熱に満ちあふれているからです。 

www.cbcj.catholic.jp

高山右近の尊敬する神父の一人であるオルガンティーノは、本能寺の変の折、安土にいました。琵琶湖を船で走行しつつ命からがら脱出します。すると、明智光秀の親類のキリシタンが手助けし、光秀のところへ連れて行かれました。
ところが、オルガンティーノは、光秀から密命を下されてしまいます。

光秀はオルガンティーノを丁重に扱い、彼らを逃がす手助けをしたが、それは光秀が彼らを介して高山右近を味方に引き入れたかったからである。
(本書より)

つまるところ、オルガンティーノは明智光秀に、高山右近への使者として使われることになってしまったのです。なんて面倒な、と彼は思ったことでしょう。

当時、イエズス会には、「布教地では戦争に介入・協力しない」という基本原則がありました。
非暴力を推奨するキリスト教の組織だから、というのもあるでしょうが、実際問題、戦争に介入すると不利益なことしかないからです*1

オルガンティーノ自身が、高山右近の軍事行動に介入することは、決してあってはならないことでした。明智光秀はその原則を知らなかったか、知っていてもオルガンティーノに無理を強要したようです。

オルガンティーノは光秀の書簡を右近に届けたが、同時に自分たちが十字架にかけられようとも光秀の要請に応じてはならないと伝えた。(本書より)

だから、上記のように訴えるしかありません。 高山右近はそれに従い、明智光秀の要請を断ります。

調べると高山右近の側にも事情があったようで、明智光秀は彼ら大阪の大名たちの対策に手抜かりがあったようなのです。
確かに、援軍をよこしてくださいとお願いしているのに、重臣を使者にせず、拾った神父(確かに高山右近の尊敬する神父とはいえ)を使うというのは、相当やる気のない対応です。
彼ら大阪の国衆たちをどこかに集めて、明智重臣が自ら頭を下げに行ったら少しは違ったかもしれません。

高山右近にとっちゃ、明智光秀の手からオルガンティーノを引き取れたことだけが収穫の援軍要請としか思えません。神父様に言われずとも、光秀に協力する気はサラッサラなかったんじゃないでしょうか。

だから、高山右近山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に味方し、明智光秀を追い詰めたのみならず、丹波亀山城まで攻めて行って明智光秀の息子(玉子の弟)の明智光慶を自害させています。

おう。高山右近、大人の事情で親友の細川忠興くんのバラ色のハピネス新婚生活♡に壊滅的打撃を与えてしまった模様。

右近のみならず、細川忠興のもう一人の親友である蒲生氏郷*2明智光秀に抗戦姿勢を示しています。

さて、当の細川忠興はといえば、もちろん大変でした。

明智光秀細川藤孝に援軍を求めましたが、藤孝はそれを受けて出家。息子の細川忠興家督を譲ります。フリーズしたらしい父親から、家督をぶん投げられた細川忠興は、父の意を受けて明智の援軍要請を拒否します。

と同時にそれは、彼の幸せすぎる新婚生活を放棄するという選択でもありました。

『細川家記(綿考輯録)』によれば、細川忠興は玉子と離婚し、彼女を味土野という場所に送りました。

しかし、玉子の親族が自刃したり殺害されたりする中、細川家は彼女を謀反人の娘として処断すること(=自害を強要すること)も、明智家に送り返すこともありませんでした。また、玉子が不在の間、細川忠興は、新しい正室を迎えることもしていません。

細川家として、このような行動に出て利益があるかどうかよくわからないため、忠興の玉子に対する個人的な感情が背景にあるのではと言われています。

Hasta la vista,baby!! 秀吉

まさに、日本中全てが自分たちの新婚生活を壊しにかかってきた細川忠興は、豊臣秀吉に出仕します。SenngokuのSamuraiしんどい。

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こんな状態になって、親友の高山右近蒲生氏郷から「お前のプライベートを破壊するつもりはなく……」「本当に許して」と慰められていただろう頃(正確には羽柴秀吉に出仕していただろう頃)、玉子は出産していました。その子が、第三子の興秋です。

本書では、味土野に送られる前に懐妊していたとしています*3
味土野に送られる前に興秋を懐妊していたとすれば、自害を強要したり斬り捨てたりすることは難しく、玉子の扱いに対する理由が見えてきます。当主の男子を出産したとなれば、なおさら細川家は興秋とその母親を殺害できません。

味土野での生活は2年間続いたようで、玉子は1584年に興秋を抱えて細川家に戻ったと考えられています。秀吉から忠興に玉子との再婚の許可が降ったのです。

細川忠興、秀吉に対して「不当離婚させられた宮津城城主とその妻にご慈悲を」「彼女のお腹には私の子供がいるんです」という弾幕を掲げ、募金活動をするなど猛烈なロビー活動をしたにちがいない。

ところが。

戻ってきた彼女。

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『細川家記』巻十三には、秀吉がガラシャに謁見を申しつけた際、彼女は、たとえ殺されても父の仇である秀吉の招きに応じるつもりはなく、強いて出よというなら懐剣で刺して復讐するといったことが記されている。(本書より)

二年の間に芦田愛菜ちゃんからアーノルド・シュワルツェネッガーへと変化していたようです……。

そんな彼女に、忠興は驚いて、

……

婦人といえども勇気があると感心しました。
そこでデレるのか……デレるのか!!!

また幸せカップルに戻りそうな細川忠興と玉子。ところが。

 

 

一度壊れてしまったものは もとにもどらない(T . T)

 

 

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*1:キリシタン大名同士が争うと、どちらに味方していいかわからないし、キリシタン大名が自分たちの助言に従って他国を攻めた際、彼らが非常に恨まれ、キリスト教を布教できなくなります。

*2:この人もキリスト教徒。レオン様。

*3:なんとなく調べたところ、興秋には1583年生まれ説と1584年生まれ説があるらしく、1582年6月に味土野に送られたのに、1584年に興秋が生まれるのはどう考えてもおかしいので、妻恋しい忠興が味土野を訪れちゃったという話もあるようです。へぇ。ラブラブだな