思うところがあり、今年の大河ドラマはアンチ活動をしています(⌒▽⌒)
いや、「見ない」「見てしまってもすぐ切り上げる」「話題を検索しない」「平安時代の別の大河が作られるよう祈念する」なのですけど……。
どうやら人気になっているみたいなんだよな……。けっ!(けっ!?)
まあちょっと見る限り、結構話としては飽きさせない展開なので、わからなくはないのですが……。そこが俺には問題なんだ!!!
歴史に忠実でないからアンチをしているのではなく、物語のコンセプトやストーリーテリングが「オレの性に合わねえ……」って感じなのでアンチをしています。私はきっと「プラスにとる」話が好きなんだと思います。
どういうことかというと、……。
例えば、史実に忠実~系(?)で、いまのところ唯一私が解釈違いすぎてイカれそうなのは、円融帝と詮子の関係です。詮子が暴力を振るわれたところは、「ちょっと!!」と落ち着かない気分になりました。さらにアンチ活動を促進しなければ!と決意を新たにしましたぞい!(おい)
で。
・円融帝と藤原兼家は仲悪かったが、兼家は状況打開のためにか娘の詮子を入内させる。
・円融帝には詮子しか子供が生まれなかった。
・円融帝が子供を産んだ詮子ではなく遵子を中宮にした。
・これに抗議し、父親の兼家は詮子を内裏から退出させた。
という事実から円融帝と詮子の関係を考えると、いくつかのパターンが想像できますよね。
1、円融帝は兼家も詮子とも関係が破綻している。(これが今の大河で採用されているパターンっぽい)
2、円融帝は、兼家とは関係が破綻しているけれども、詮子とは絆を持っている。
3、円融帝は、兼家とも詮子とも関係破綻していない。(これが面倒臭いことに史実と近い)
たぶん私は物語を鑑賞するなら1ではない方が好きなんですよね。2のほうがとげとげしてないし、希望がある。そして、帝の苦しみや詮子の痛み、兼家の親としての感情など、つまり登場人物が生きているということを実感したいんだと思います。ここら辺はこの間見てハマった「大奥」があまりに上手で……。
3は結構実際に会ったことに近いそうなんですけど、視聴者は「!?」となるかと思います。
だけど、このとげとげした調子で定子と彰子の関係が描かれたら俺は、僕は、私は
脚本家が悪いとは一概に言えませんが、あの脚本家の書く大体のお話がなんだか性に合わないのでこればっかりは違う国に迷い込んでしまったものだと思っておきます。
✿
私の勉強した範囲でのことであり、色々間違っていることもあると思いますが……、円融帝はなんで皇子を産んだ詮子を中宮にしなかったかというと、平安後宮は実力社会や帝の愛情が物言う社会ではなかったといわれているからだそうです。
中宮になった藤原遵子は父親の藤原頼忠が当時の関白で、関白の娘が中宮にならないなどめったにありませんでした(帝と関白・摂政の関係が深い方が政権運営には都合がいいからです)。藤原頼忠に兼家がキャリア形成の面で負けていたこの時点で、詮子は事実上「後宮闘争」に負けていたのです。詮子は円融帝にとって「二番手のきさき」でしかなかったのでしょう。
さらに円融帝は、兼家と激しく対立していた兼家の兄・兼通の後見で即位した帝でした。そのせいか、兼家は詮子を入内させるのを当初渋っていました。円融帝としては、詮子の入内は兼家の服従の証になるのでhappy~なはずだったのです。でも、中宮にはしてあげられない。つまり難しい関係だったのです(⌒▽⌒)
ただ、詮子にとっての僥倖は、円融帝と子供が出来たことです。円融帝はどのきさきとも子供を儲けられずにいましたが、一条天皇(懐仁親王)は詮子入内の三年後に誕生しています。詮子にとっては、これにより、後宮で重きを成せるようになります。中宮でなくとも、例えば詮子の従姉妹であった藤原懐子(花山天皇母)のように、子供が帝に即位することはあり得ますし。
それに、生まれつきなのか心労がたたったのかはわかりませんが、服部早苗先生の「国母の政治文化」という論文によれば、詮子は病弱な体質でした。
逆にそう考えると、なんの史料的裏付けもありませんが、懐仁親王が生まれた二年後に遵子が中宮になった際、兼家が詮子を内裏から退出させたのは、政治的抗議という側面で見ると、相手が関白の娘で当然中宮になるものだからという常識などぶっ飛ばして、「詮子ちゃんはなぁ、子供を産んでるんだぞ」「体は弱いかもしれないけどヨォ! 帝のお役にウチの娘は立ってるだろうが!」「中宮にさせろヤァ!!」という兼家の、娘バカで強気で剛毅な姿勢も感じます。
最終的に円融帝に全く子供ができなかったので、詮子は「後宮闘争」の勝者となり、国母として、天皇家の長として見事に難しい局面を差配し、命を削りながら生きていくことになります。