Don't mistake sugar for salt.

読んだ本や思ったことの記録

話は伺った!!!!貴殿、困っておるそうだな!いい情報を教えてやろう〜坂井孝一著『承久の乱』①

うっ、と思ったのである。

執権』であらかた北条義時の人生を家族に説明できるようになった。

先日『執権』を読んで、いかに北条義時陰険腹黒聡明怜悧かを母に説明したら「小栗旬くん!!似合う!!!!!!!!」と大喜びし、闇落ちした小栗くんが見られるのではないかと楽しみにしだした

私も大概だが母も大概である

……ではなく、「まずい」と思った。

承久の乱についてイマイチ家族に説明できなさそうだ!!!!!!!!!!!!

『執権』、幕府内の権力闘争については色々とよくわかるのだが、義時の人生のクライマックスに当たる承久の乱については弱いのである。

これはいわゆるあれだな。あれだよ。歴史学あるあるの……

研究分野が違う

私はとある筋(図書館・本屋・密林ともいう)を辿りそのままずばりの本を入手した。

 

『鎌倉殿』の時代考証を務めておられる先生の執筆したものなので、この本に沿って大河ドラマ承久の乱が展開するのではないかと目算を立てることができる。

『執権』よりはお堅い感じだが、筆者の先生が「承久の乱」を現代社会にわかりやすく説明しようと一生懸命努力しているので、決して読みにくい本ではない。

目玉はあとがきの突然の猫ちゃんである。猫ちゃんについて語りたいのは山々だが、この余白は坂井先生の猫ちゃんについて書くには狭すぎる

 

承久の乱とは1221年、一般に朝廷と幕府の対立の末、調子に乗った後鳥羽院が幕府に喧嘩を売ってしまい、ぼろ負けして隠岐へ流された戦い、——と解釈されているらしい。

 

へぇ~~~~~~

 

(私は高校の時の歴史は世界史選択だったため、第三回十字軍とアイユーブ朝成立や、「完顔阿骨打」「耶律阿保機」「成吉思汗」「忽必烈汗」を何と読むか、それが何なのかについてはちょっとわかるんだけど、この時期の日本史はわからんちんなのである)

 

本書はそんな後鳥羽が無能すぎるという評価に帰結してしまう承久の乱のイメージを一新したいようだ

承久の乱」といえば、朝廷の最高権力者たる後鳥羽院(上皇)が鎌倉幕府を倒す目的で起こした兵乱、というのが一般的なイメージであろう。確かに、乱を境に朝廷と幕府の力関係は大きく変わった。この点だけを取り上げれば、朝廷が幕府を倒そうとして失敗した事件ということになる。ただ、そこには、朝廷と幕府を対立する存在とみなす先入観が働いているように思われる。(p.ⅰ)

と冒頭で書いてある。

 

へぇ~~~~~~(さっぱりわからん)

 

本書によれば、承久の乱は当時幕府に君臨していた執権・北条義時を討伐するために起こされたものでしかない、と解釈されている。

 

へぇ~~~~~~(んん?)

 

でもでも、と私は思ったのである。「執権は幕府No.2なので、執権を倒そうと決意した段階で幕府がはちゃめちゃになるのだから、幕府を潰したかったのと同じじゃないの?」と。

 

ところが本書によれば、そうじゃないんだという。

 

本書では、その死が承久の乱のきっかけになった源実朝に非常に紙幅を割いている。

実朝がいた頃は朝廷と幕府とは終始良好な関係を保っていた。実朝は教養が高く、後鳥羽院の愛好する和歌を好んでいたという個人的なシンパシーを感じる側面もあったし、朝廷と幕府が協調することはお互いにとって有益だった。

 

そんな関係だったとは知らなかったが、ともかく坂井先生は朝廷と幕府の協調関係について論じられている。

 

どこで両者の関係が悪くなったのか。

端的に言えば1219年、源実朝が甥の公暁に暗殺されたことがターニングポイントとなる。

鎌倉幕府が後継の将軍を用意するにあたり、後鳥羽院の皇子を将軍とする案が浮上する。これはある事情で子供が出来ないと悟った実朝が生前に採用していた案だった。だが。

 

後鳥羽が実朝くん推しすぎたのである

 

どういうことか。

後鳥羽は幕府にキレ散らかした。

後鳥羽「実朝きゅんを守れなかった幕府にうちの息子をやれるか」

実朝が暗殺された後、後鳥羽はストレスが溜まって体調を崩している。後鳥羽は実朝が非常に推しだったらしい

幕府も負けてはいない。幕府のほうこそ将軍が死んで大変なのである。後鳥羽はただの実朝きゅんのファンなので外野で泣いてれば良いが、幕府は泣く暇がない。

次の後継の将軍を早く決めなきゃならないのだ。

時の執権・北条義時は実朝の母である北条政子やほかの幕閣と話し合い、後鳥羽に単刀直入にこう言っちゃったのである

「皇子を寄越せよ!!何の妥協もできねーーーーっ!!」

この際、義時の弟の北条時房が重武装して後鳥羽に迫ったというのだから何とまあ広域暴力団関東源組

 

この経過、『執権』にも裏事情が一部触れられていたが、本書にはさらに細かく載っていた。

幕府がこれほどまでに強硬な姿勢に出たのは、ある御家人の領地を後鳥羽が召し上げ、自らの愛人である遊女に下げ渡してしまったことが原因だという。

炎上案件\(^o^)/

当時の武士は「一所懸命」という言葉もある通り、領地というものが大事だった。理由なく大事な領地を取り上げられて、愛人に対する褒美として下げ渡されたとなれば、自分の土地の「価値」について大きく侮辱された、と考えてもおかしくない。

しかもその土地は水運の要衝。幕府全体としても飲むわけにはいかなかった。

ここから急速に朝廷と幕府との関係が悪化していく。

 

後鳥羽が酷い気もするが、本書は続ける。

そもそも後鳥羽院本人としては、幕府をコントロールしたいだけで、幕府そのものをどうにかしようとは思っていなかったのだという。だが、後鳥羽の予想を超えて幕府はコントロール不能になっていた。

それが現れたのが大内裏の造営だった。

大内裏の造営なんかこんな戦乱続きの世にやるなよ、と思うのだが、後鳥羽としては大内裏を立派に作ることこそ自らの威信を高め天下国家が安寧に過ごせるものだと思っていたのだろう。

まだ当時は1100~1200年代。中東、中国宋朝は経済的に豊かでかなり高度な文明を築いていたが、まだ原始的な信仰も各地に残っている時代、神と共存し支配者が神である時代である。後鳥羽を笑ってはいけないのである

でも……、時は1100~1200年代。宋朝が青苗法の是非について喧々諤々とし、中東のアイユーブ朝は交易を盛んにして国庫を潤わせていた。そろそろ支配者が「内政」という発想をしていい時代だ。天下を安寧にするには、農民を保護して富ませ、商人を保護して経済活動を盛んにすべきでは? なんて発想に転換している時期である。

後鳥羽院にとっては天下を安寧にするはずの内裏の造営だが、他の人にとっては無駄だと思われ、「悪政」になってしまっているのだった。

もちろん貴族も武士もみんなストライキした。

後鳥羽がトレンドを読むのが苦手だったのかどうかはわからないが、後鳥羽の腹が立つことには、このストライキを領地で率先して行い、民に無駄な負担をかけさせていないのが鎌倉幕府の執権の北条義時だったのだから、


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後鳥羽はこんな感じになったに違いない。

幕府をコントロールできなくなったことを後鳥羽は痛感して、北条義時を排除しなければいけないと思い立つ

……本書の唱える「承久の乱」発生までをまとめてみた。

へぇ~~~~~~~~(ちょっとわかった顔で)。

 

だが、承久の乱の経過を追うに従い、ワンチーム鎌倉とワンマンチーム後鳥羽の差が出てきてしまう。

こうしてみると、北条政子・義時姉弟をはじめ、三浦義村大江広元三善康信、そこに北条時房・同泰時を加えた幕府首脳部は、各自が適材適所の働きをする、いわば「チーム鎌倉」であったことがわかる。京方。鎌倉方の実情をよく知る広元。康信は、戦いには加わらないが、情勢や戦力を分析する有能な裏方、尼将軍政子は裏方の提言を採用する名監督、それをもとに義時はキャプテンとして的確な指示を選手に伝え、経験豊富な時房:義村、若手のホープ泰時らは中心選手として現場で活躍し、東国武士という一般の選手を引っ張っていく。強固な結束力と高い総合力を持ったチームと評価できよう。(p.170)

本書の趣旨はここらへんだと思う

両者が本気で対峙した場合、カリスマが率いるチームは強固な結束力と高い総合力を持ったチームに勝てない。

 

これが人間の社会の真理ではないだろうか。人間が群れをなして行動する社会的生物である以上、才能が傑出した一人に頼ってその判断を仰ぐのではなく、一つの目的のもとに結集した様々な能力を持つ人々のほうがパフォーマンスが高い

承久の乱はそれを教えてくれているのである。

 

次の記事では「坂井先生は北条義時三浦義村が仲よかったってことにしたいのか?」と一瞬だけ思った、本書でちょくちょく現れる「困った時の三浦義村」シリーズについて語っていきたいのだが、

本書の面白ポイントではないかと考えている「義時おじさんがウザい実朝」から先に語ろうと思う。

 

 

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