フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳するページ!!!!⑥
たいへんお久しぶりですまん!!
18世紀プロイセンの、変わった夫婦の文通を海藻(kaisou-ja)様と訳しています(⌒▽⌒)
私はプロイセン何それ美味しいの?フランス語??一瞬だけ第三外国語として大学で習ってたけど、いやまるっきり忘れたわまじ無理の亮〜〜!なうえ、豆腐メンタルですので、間違っていたら優しく教えてくだされば幸いです。
だいたい七年戦争頃の夫婦の文通を訳しています。(海藻さんありがとうです)
■概要■
七年戦争頃、王妃エリーザベトと国王フリードリヒの間で大きな問題が持ち上がっていました。王太弟であったアウグスト王子のことです。
フリードリヒ2世とエリーザベトは王太子時代に同居したきりで、その後は別居したため子供が生まれませんでした。手紙では別居後も何度か対面している様子がうかがえるので「機会」がなかったとは言いきれませんが、少なくとも夫妻はフリードリヒが即位した時点で半ば子作りを諦めており、フリードリヒの弟を、エリーザベトの妹のルイーゼ・アマーリエと結婚させて次期プロイセン王に据えました。それがアウグスト王子です。アウグスト王子は無事にルイーゼと子供をもうけました。
アウグスト王子は兄とは真逆に明朗で誰からも愛される性格ではありましたが、やや軽率かつ感情的な面があり、私生活でもルイーゼを粗略に扱って別の女性と結婚したいと騒いでフリードリヒ大王を困らせていたようです。
フリードリヒ大王はエリーザベトと別居したけれども、夫として「愛妾を作らない」「地位を脅かさない」という最低限のことはしてきました。個人的な感情はどうあれ、この時期の王族との結婚はお家同士のつながりなわけで、王妃を粗略に扱うと王妃の実家やその支持勢力を敵に回すことになります。オーストリア継承戦争からの複雑な外交関係の中、王妃の実家に見放される事態は避けたいところです。
しかし、アウグスト王子はその理屈さえ判断ができない人物だったと言えます。
しかも、七年戦争中、作戦行動を完遂しなかったことでフリードリヒ大王に叱られて精神的に追い詰められてしまいます。フリードリヒ大王としても軽率な弟に堪忍袋の尾がいい加減切れたのかもしれません。その結果、アウグスト王子は病にかかり、死の床についてしまいます。
そのとき、アウグスト王子妃でありエリーザベトの妹であるルイーゼはベルリンにいました。身重の体だったのです。
身重のルイーゼに過度なストレスをかけずに無事出産してもらうため、エリーザベトとフリードリヒは二人で相談してアウグストの死を出産まで隠し、ルイーゼのメンタルケアに二人で注力します。
- 51. DE LA REINE.
- 52. A LA REINE.
- 53. DE LA REINE.
- 54. A LA REINE.
- 55. A LA MÊME.
- 56. A LA MÊME.
- 57. A LA MEME.
- 58. A LA MÊME.
- 59. A LA MÊME.
- 60. A LA MÊME.
51. DE LA REINE.
Berlin, 12 juin 1758.
Sire,
Quelle triste circonstance me fait prendre la plume à la main pour vous mander la mort du Prince de Prusse,a qui s’est faite ce matin à trois heures et demie au matin! Je vous en fais mes compliments de condoléance de la mort du prince. D’abord après l’avoir apprise, je me suis rendue ici pour voir comment l’annoncer à ma sœur, surtout dans les circonstances dans lesquelles elle se trouve, pour que cela ne lui fasse point de mal, et, s’il est possible, pour conserver le fruit qu’elle porte. Elle ne le sait pas encore. Je la recommande, en attendant qu’elle pourra écrire elle-même, dans l’honneur de vos bonnes grâces et protection, n’ayant, après la grande perte qu’elle a faite, que vous pour son soutien et protecteur. Je serai au palais, mais ma sœur ne le sait pas encore; médecin et tout ce qu’il faut est ici. Dieu veuille vous donner de la santé, et vous conserver jusqu’à l’âge le plus reculé de la vie humaine, pour le bonheur de vos sujets et en particulier pour celui de celle dont tout le bonheur en dépend! Je me recommande dans vos bonnes grâces, qui suis avec le plus parfait attachement, entier dévouement et toute la tendresse imaginable, etc.
51、王妃から
ベルリン 1758年6月12日
我が君へ
なんて悲しい出来事が私にペンを取らせるのか…
今朝の3時半にプロイセン公の死を聞かされました!
王太弟殿下の死を悼み、お悔やみの言葉を申し上げます。
まずはこのことを※1妹にどう知らせればいいのか、
特に現状で妹がショックを受けないように、宿る命を守るために
どうすればいいのかを考えました。
彼女は(夫の死を)まだ知らないのです。
彼女が立ち直る時、大きなショックを受けた後に、
彼女を支え、守ってくれるのはあなただけです、
あなたの優しさと庇護を信じて、彼女をお願いします。
わたしは宮殿※2に行きますが、妹はまだ知りません。
医師や(妹に)必要なものはすべてここ※3にあります。
神は、健やかさを与え、人生の遥か未来まで臣下の幸福のために、
それに依存している者の幸福のために願っておられるのです!
最も完璧な愛と献身と想像できるすべての優しさを所有する
あなたのご好意などに感謝いたします
※1 妹→プロイセン公妃のルイーゼ・アマーリエ
夫であるプロイセン公(王太弟)のアウグスト・ヴィルヘルムは
758年6月12日にオラニエンブルクで死去しました。
妹はベルリンにいます。そして身重のからだのようで。
※2 宮殿→オラニエンブルク宮のこと
※3 ここ→ベルリン
なおオラニエンブルクはベルリン中心から北に約35km
そんなに離れてはおりません
(海藻さん訳)
52. A LA REINE.
(Camp de Prossnitz) ce 19 (juin 1758).
Madame,
Vous avez très-bien fait de cacher à ma belle-sœur la grande perte qu’elle vient de faire, et je ne doute pas que vous userez de toute la circonspection possible pour la lui apprendre. En même temps, vous lui direz qu’on ne saurait être plus sensiblement touché de ce malheur que je le suis, et que je contribuerai en tout ce qui dépendra de moi à son bonheur, et que par mon amitié je tâcherai d’adoucir l’affliction de sa perte, autant que de pareilles pertes peuvent être adoucies; que ses enfants, je les regarde comme les miens, et qu’elle peut compter que j’en aurai le plus grand soin, gardant l’image de mon pauvre frère imprimée au fond du cœur, dont la mort seule pourra l’effacer.
Je suis, madame, avec bien de l’estime, etc.(a)
a:On voit à la fin de l’autographe de cette lettre des traces qui semblent indiquer que le Roi pleurait en l’écrivant.
**
52、王妃へ
(プロスニッツ(※1)の戦場)、19日(1758年6月)
マダム、
あなたは私の義理の妹が受けた大きな喪失を隠すのに上手におやりになられた、そしてあなたがそのことを教えるのに細心の注意を払っていることは間違いではないと思います。それに加えて、私ほどこの不幸の影響を受けた者はいないと伝えてください。そして、私にできるすべてのことで、彼女の幸福に貢献し、友情により、できるかぎり、その喪失の苦痛を和らげるようにしましょう。彼女の子供達を、私自身の子と同様とみなして、最大限の面倒をみると約束します。また、痛ましい弟の姿を、死ぬまで、心の奥底に刻みます。
私は、マダム、尊敬の念を持っています。(a)
(a)この手紙の署名の終わりに、王がそれを書いている間に泣いていたことを示しているように見える痕跡がある。
**
※1:チェコのプロスチェヨフだと考えられる
私が驚愕したのは、弟を自分のせいでなくした罪悪感があるとはいえ、王様が別居生活の長い王妃様への手紙を書くにあたっても、涙が抑えられなかったということです。弟に対する根っこでの深い愛と妻に対する心の許しようを同時に感じます。あきらかに、信頼していない奴に大嫌いな弟のことを書く態度ではないと思われる。
(永都訳)
53. DE LA REINE.
Schönhausen, 15 juin 1758.
Sire,
C’est avec une reconnaissance parfaite que j’ai reçu votre lettre.
Avec la grossesse de ma sœur cela va bien, et on a pris toutes les précautions imaginables pour que l’altération ne lui fasse du mal.
Médecin et chirurgien y ont d’abord été.
Elle est à présent à la moitié.
Comme ma sœur est dans cet état, et outre cela dans le grand deuil, j’espère que vous permettrez que la Duchesse ma mère vienne à Berlin, et loge au château, et que vous aurez la grâce de donner vos ordres là-dessus.
Je vous promets bien sincèrement qu’on ne fera pas la moindre intrigue; pour moi, je la hais autant qu’on la peut haïr, et j’ai eu toute ma vie de l’horreur pour cela. Pour des dépenses, je n’en ferai sûrement pas plus qu’il sera nécessaire, et je crois que ma mère pourra se contenter de la façon que je vis ordinairement. J’évite toutes les dépenses, et me retranche sur tout; mais le deuil et le voyage n’a pas laissé de me coûter,quoique tout s’est fait avec la plus grande économie du monde.
Vous pouvez compter sur moi, que sûrement je ne ferai rien au monde qui puisse vous déplaire. Vos grâces et bontés me sont toujours trop précieuses, et sûrement ce ne sera pas par ma faute que je pourrais avoir le malheur de les perdre; je ne m’en consolerais de ma vie, et ma façon d’agir est toute simple et unie, comme tout le monde pourra vous le dire et me donner ses témoignages. Dieu veuille vous donner de la santé, vous conserver et donner du bonheur dans toutes vos entreprises!
Je me recommande dans l’honneur de vos bonnes grâces et bienveillance,qui suis avec le plus parfait attachement, entier dévouement et toute la tendresse imaginable, etc.
a Il faut probablement lire 20.
**
53. 王妃から
シェーンハウゼン、1758年6月15日
我が君へ
無垢な感謝の気持ちで、あなたの手紙を受け取りました
妹の妊娠は順調に進んでいます、私達は想像できる限りの予防の措置を
とっていますので、異変が無いようにしています。
医者と外科医が最初からおりますので、彼女の負担は半減しています。
妹がこのような状態であり、それに加えて悲嘆の有様ですので、
私の母の公爵夫人がベルリンの宮殿に滞在する許可をお許しください。※1
そしてあなたがこれについて 恩情ある指示をいただけることを願っています。
私は誠意を持って、あなたへの何の陰謀もないことを心からお約束します。
私は彼女をできる限り疎外します、
そして、それのために人生を通して恐れをいだいておりました。※2
経費については、必要以上にかかることはないでしょう、
母は普段の生活で満足できると思いますし私は倹約を心がけます。
私は支出がかさまないように出費を抑えるようにいたしましたが、
葬儀とその移動※3には多くの費用がかかりました。
あなたを不愉快にさせるようなことはしませんから、私を信頼してください。
あなたの恩寵と善良さはいつも私にとって測り知れない貴重なものであり,
万が一それを失う不幸があっても,私の過ちではないでしょう。
私は自分の人生を慰めるつもりはありません。そして誰もがあなたに話し
正当さを実証してくれるので、私の行動はとてもシンプルで纏まっています。
神はあなたに健康を与え、あなたを守り、すべての努力に幸福を与えたいと
願っておられます。
私はあなたの善意と博愛に敬意を表し、我が身を推挙します
完全な献身、想像できるすべての優しさで私は常にあなたに従います。
A おそらく20を読んでいます。
**
※1 夫氏はあまり嫁殿の母を良くは思っていないらしい。
オーストリア帝室と外戚関係(マリア・テレジアの母の妹)にあるのが要因かもしれません。
なお、後日ベルリンに来た実母を案内するために嫁殿は初めてサンスーシ宮殿を訪問します。
※2 直訳すると「憎む」とかになりましたが、おそらくは実母が内通等を疑われないようにベルリン宮廷内の輪のなかに入れない、みたいな意味だと思います。
※3 ベルリン~オラニエンブルク間かと思われ。
緊急事態とはいえ、夫氏が実母をよく思っていないことを承知しているにも関わらず
母の訪問を上手に言葉を認めさせる(認めざるを得ないように持っていく)あたりは
嫁殿はとても優秀だと思います。
男だったら出世できるんじゃないですかね。
(海藻さん訳)
54. A LA REINE.
(Plothow) ce 17 (août 1758).
Madame,
Je crois que le mieux serait d’envoyer ma belle-sœur une lois pour toutes à Magdebourg. Là, quoi qu’il arrive, elle pourra accoucher à son aise, et attendre son terme. Il la faut faire partir incessamment; pour la personne que l’on veut m’envoyer, cela est très-indifférent. Je suis avec bien de l’estime, etc.
**
54、王妃へ
Plothow(プロソウ)、(1758年8月)17日
マダム、
マグデブルクにいる全ての人のために、義理の妹に法を(制定して)送った方が最善だと思います。何が起こっても、そこで、彼女は出産予定日を待ち、安心して出産することができるでしょう。彼女はすぐに送り出さねばなりません。私を彼女の元へよこさなければいけないと思っている人もいるようですが、それは全く違います。尊敬の念を抱いています。
**
マグデブルクとは、七年戦争の際、オーストリアのハンガリー系騎兵等によってベルリンが襲われたので、エリーザベト妃の責任のもと、王室が避難した場所であったようです。
(永都訳)
55. A LA MÊME.
(Pombsen, près de Jauer) ce 3 (novembre 1758).
Madame,
J’ai appris avec plaisir l’heureuse délivrance de ma belle-sœur. Puisse cet enfant ※1 être plus heureux que ses oncles! ※2
Je suis avec estime, etc.
※1 Le prince George-Charles-Emile, né à Magdebourg le 30 octobre 1758 et baptisé le 19 novembre suivant, mourut dans la nuit du 15 au 16 février 1759. George II, roi d’Angleterre, était son parrain.
※2 Frédéric écrit à son frère le prince Henri, de Pombsen, 3 novembre 1758 : « Notre belle-sœur vient d’accoucher d’un fils; veuille le ciel qu’il soit plus heureux que ses oncles! »
***
55.同じように。
(ポンブセン、ジャウアーの近く)
1758年11月3日
マダムへ
義妹の嬉しい出産を知り喜んでおります。
この子がおじさんよりも幸せになりますように!
いつも尊敬しております
※1 ジョージ・シャルル・エミール王子は
1758年10月30日にマクデブルクで生まれ、11月19日に洗礼を受けました。
1759年2月15日から16日の夜に亡くなりした。代父のジョージ2世はイングランドの王です。
※2 フレデリックは、1758年11月3日、ポンブセンにいる弟のアンリ王子に次のように書いています。「義理の妹が息子を出産したばかりです。おじさんたちよりも幸せになりますように!」
(海藻さん訳)
56. A LA MÊME.
(Schweidnitz) ce 9 (novembre 1758).
Madame,
Pourvu que mon neveu ne s’appelle ni Jacques, ni Xavier, ni Joseph, qu’importe? S’il était mon fils, je l’appellerais Charles-Émile;(a) mais cela est indifférent. J’ai l’honneur d’être, etc.
**
56、同様
シュフィドニツァ(*1)、9日(1758年11月)
マダム、
甥の名前がジャックとか、クサヴィエとか、ジョゼフでない限り、何が問題なの?彼が私の息子だったら、シャルル・エミール(カール・エミール)と呼ぶでしょうが、それは問題ではありません。私は光栄に思っています。
(a)この名前は、1655年2月6日にベルリンで生まれ、1674年11月27日にストラスブールで亡くなった、大選帝侯(フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯)の息子の名前です。
**
*1:今のポーランド。シュレジェンにあった街。
伯父上、甥の名前をつける。
ジャックはわからないけど、クサヴィエとかジョゼフ(ヨーゼフ)とかは敵対するフランスとオーストリアの皇子がたのお名前である。大王、皮肉がきつい。
もしフリードリヒとエリーザベトとの間に子供が生まれていたら、私たちはプロイセンの「フリードリヒ」「ヴィルヘルム」祭りに苦しまなくて良かったかもしれない!!!プロイセン王カール1世とかプロイセン王エミール1世とか!!スペイン・ハプスブルク家と並んで、名前のヴァリエーションは無いのかと思うのがプロイセン王家。
「彼が私の息子だったら」という表現、私は「フリードリヒ2世も子供が欲しかったんだな」と思いました。そういえばドイツ語版ウィキでは、エリーザベトとの間に「どうして子供が生まれないのかわからない」と吐露しているフリードリヒ2世がいたな。突っ込んだ話になるけど、王様と王妃様は子供を作らなかったというより、出来なかったのかもしれない……??
(永都訳)
57. A LA MEME.
Wulkowb (8 aout 1759).※3
Madame,
Je n’ai que le temps de vous assurer de ma parfaite amitie,
de vous dire que nous nous portons tous fort bien,
et de vous prier de rendre les incluses a leurs adresses.
Je suis tout a vous.
***
57.
Wulkowb(1759年8月8日)。
マダムへ
(今の私には)私の完全な友情を保証する時間があるだけです、
私たちは皆元気にやっていることをお伝えするために、
あなたに(私の)内包物※1を彼らの住所(元)に戻すように頼みます。
私のすべてはあなたのものです。※2
※1 内包物→外側があってその中のものですが
おそらくは夫氏(外側)がすべき役割や務め的事柄や財産・資産のことかな。
上記前提で意訳すると夫氏は
「私のすべきこと、したいことは全部あなたにおまかせしますので、彼ら(家族)に与えてください」
の意味になるかな思います。
※2「Je suis tout a vous」直球ストレート表現から、で夫氏の嫁度信頼度はかなり高いと思う。
※3 カイの戦いで(1759年7月23日)で大きく損害出してしまった後、
クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)で決着させようとした数日前。
かなり夫氏が精神的に追い詰められていた頃(自決用の薬を持っていたり)なので
私的な遺書的な意味もあったかも。
そして間違ってたら教えてプリーズ!
(海藻さん訳)
フリードリヒ大王のしんどい時期は続く!!!!!!
58. A LA MÊME.
Pretzschendorf, 1er janvier 1760.
Madame,
Je vous suis fort obligé des vœux que vous faites à l’occasion du renouvellement de l’année. J’en fais de fort sincères pour votre conservation et pour tout ce qui vous peut être agréable. Notre situation n’est guère riante, et n’a pas l’air de le devenir. Nous serons obligés d’avoir pendant tout l’hiver un pied dans l’étrier, et par conséquent il n’y aura point de repos.
Je suis avec une parfaite estime, etc.
**
58、同様
プレッツシェンドルフ、1760年1月1日
マダム、
年の瀬にあたってのご挨拶、何よりもありがとうございます。私はあなたを守ることと、あなたを楽しませるすべてのことに、非常に誠実でありましょう。我々の状況は笑い事ではないし、(未来)そうなるようにも見えません(※1)。冬の間はずっと鎧に片足を置いていなければならないでしょう、だから休む暇もありません。
完全なる尊敬を。
**
※1:自殺と退位を考えたクネルスドルフの悪夢はなんとかなったとはいえ、このころプロイセン軍は死んだ目になっています。1762年まで待って。フリードリヒ2世、「笑ってられない状態だよ!!!!!」と妻に叫ぶの巻。実際笑ってられない状態です。
(永都訳)
59. A LA MÊME.
(Bunzelwitz) ce 22 (août 1761).
Madame,
La communication n’est pas encore aussi libre que vous le croyez,
et la campagne pourrait bien durer jusqu’au commencement de décembre.
J’ai été fort consolé par les nouvelles que j’ai reçues de Wolfenbüttel;
il faut espérer que le ciel nous assistera, et qu’à la fin nos calamités trouveront leur terme.
J’ai beaucoup plaint la mort de mon neveu, ※2 dont j’ai été informé il n’y a pas longtemps.
Je plains la Duchesse-mère, qu’une maladie a retenue à Wolfenbüttel;
elle aura eu beaucoup à souffrir pendant ce siége.
Je ne sais pas encore ce que je deviendrai cet hiver,ni de quel côté il faudra que je me tourne.
Je vous prie cependant d’être persuadée de la parfaite estime avec laquelle je suis, etc.
※2 Voyez t. XII, p. 33.(12巻のP33参照)
※3 Voyez t. V, p. 164.(5巻のP164参照)
***
59.
(ボレスワビツェ)※1 1761年8月22日。
マダムへ
交渉は予想より進まず、戦闘は12月初旬まで続く可能性があります。
ヴォルフェンビュッテルから受け取ったニュースに大いに慰められました。神の恩寵により最終的に私たちの災難が終わりを迎えることを期待しなければなりません。
私は甥の死※2 を大変悲しんでおります。少し前にその事を知りました。ヴォルフェンビュッテルで病で伏せる母の公爵夫人※4 に同情いたします。彼女はこの包囲の間に多くの苦しみを味わったでしょう。
この冬、自分がどうなるのか、戦局はどう転ぶのか私にはまだわかりません。しかし、私からあなたへの完璧な尊敬などを確信していただきたいと思います。
※1 ボレスワビツェ(ポーランド)
この頃の現状は下記で
ここまでのプロイセンの損害は大きく、疲弊していましたが墺も露もそれは同じくで大きな戦闘を起こす余力はどの国も残っていませんでした。
しかし東部ではコルベルク陥落で、露が海路からの補給が可能になり、露が大きく有利となりました。(陸より海の方は人も物資も早く多く運べるのさ)
そのため英国からは「和平交渉で妥協しなければ援助金打ち切り!」と脅され、さらにプロイセン軍は6万人まで失うわ、首都包囲の危機等、国が詰む一歩手前の頃です。
本当に危うしプロイセン。
※2 アルブレヒト・ハインリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク(1742年2月26日-1761年8月8日)
嫁殿にとっても甥っ子です。
19歳で戦死。
敵に突撃していったらしい…
夫氏は彼のために追悼のオードを書きました。
※3 ヴォルフェンビュッテルも敵軍に攻め込まれましたが、奪還したので
ニュース→奪還に安堵した。
包囲の間に多くの苦しみ→敵軍からの街の包囲と身内の死
※4 Duchesse-mère→母の公爵夫人なので嫁殿のお母さんかと。妹ならDuchesseでええと思うしsœurを使うと思う
(海藻さん訳)
60. A LA MÊME.
(Breslau) ce 14 (mars 1762).
Madame,
J’ai appris avec douleur la mort de madame votre mère.(a) Je vous en fais mes condoléances. Elle était âgée et maladive; elle se trouve à présent à l’abri de tous les malheurs qui font le partage de l’humanité, et nous tous tant que nous sommes, nous prenons le même chemin, l’un un peu plus tôt, l’autre un peu plus tard. Un jour nous serons tous là-bas, quand chacun aura fini le rôle qu’il est obligé de faire dans le monde.
Après tous les malheurs et les mauvaises nouvelles qui depuis six années
nous ont été journalières, il serait en vérité temps que nous en reçussions de plus agréables. Je souhaite que ce temps vienne bientôt, en vous assurant de toute l’estime avec laquelle je suis, etc.
a:La duchesse Antoinette-Amélie de Brunswic mourut le 6 mars 1762.
**
60、同様
(ブレスラウ)、(1762年3月)14日
マダム、
お母様の死を悲しみをもって知りました(a)。お悔やみ申し上げます。あの方は年老いて病がち——私たちも遅かれ早かれたどる、人類が共有する全ての不幸——でしたが、今では、そこから守られています(※1)。この世で果たすべき義務を終えたとき、いつの日か、私たちもそこにいるでしょう。この6年間、毎日のように受けてきた不幸や悪いニュースの数々を経て、そろそろ本当に嬉しいニュースが増えてきました(増えてきて欲しいものです(※2))。そのときが早く来ることを願いつつ、私が抱いているすべての尊敬をあなたに保証します。
Aアントイネッテ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク侯爵夫人は1762年3月6日に亡くなりました。
**
※1:かなり日本語っぽく意訳したところ。フリードリヒ二世、嫁を慰めたいのかよくわかんないけどめちゃくちゃ哲学している。
※2:私がポンコツなので「そろそろ本当に嬉しいニュースが増えてきました」と訳してしまいましたがどう考えても前後の文脈からして「増えてきて欲しいものです」ですよね。いくら義母との仲がよろしくなくとも、義母の死が嬉しいニュースになることはありえないですよね!?大王!?まだ20代とか30代の、オーストリア継承戦争の時に嫁の兄弟たちに対してアレすぎて嫁に開き直った手紙を送ったとしても!さすがに!大人になったよね!?もう50歳だもんね!?フリードリヒ2世!
(永都訳)