Don't mistake sugar for salt.

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フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳してみよう〜④

18世紀のプロイセンに実在した、一言では形容しがたい仲の国王夫妻の文通を海藻さん(kaisou-ja)と訳しています(⌒▽⌒)

残念ながら、私はたまたま18世紀の王妃様を調べていた時に書簡が公開されているのを見つけたもので、フランス語はおろか、18世紀プロイセンに造詣がありません。豆腐メンタルでもありますので間違いがあれば優しくご教授ください。

*メモ(あらすじとしてお読みください)*

夫:フリードリヒ二世。30歳〜35歳。職業はプロイセンの王様。即位して数ヶ月後に南の大国オーストリアに侵攻する、野心の塊のようなお方。妻のエリーザベトにオーストリアとの戦況を書き送っているが、今までの手紙の中で一番楽しそう。政治の都合でエリーザベトの兄を見捨てた時の彼女に対する言い訳(※逆ギレ)が政治哲学。エリーザベトの弟を戦死させた時のお悔やみの言葉が一行。彼女にキレられて送り直した時の手紙は、子供の言い訳のようである。さすがにエリーザベトの宮殿(シェーンハウゼン宮殿)を素通りしたときは、彼女から高度かつ優雅な反撃(大好物を贈られる)を受けた。
自分たちの間に子供が生まれないため、エリーザベトの妹のルイーゼ・アマーリエを、自分の弟で王位継承順位第一位のアウグストと結婚させる*1
そんなこんなで31通目から40通目では、政治・軍事的名声と反比例するように、夫としてグダグダかつポンコツになっていくフリッツくんの姿が見れる。

妻:エリーザベト・クリスティーネ王妃。27〜32歳。プロイセン王妃。上記のようなロックな夫を抱えているが、本人はプロイセン王妃として真面目に仕事をしているようで、フリードリヒのオーストリアに対する陰謀に協力していたりする。ところが当時のロシアの政治の都合が微妙だったため、フリードリヒは彼女の兄であるロシア皇帝の父(アントン)を見捨てる、さらには弟が戦死した時にもらったお悔やみの手紙が一行、宮殿を素通りされるなど、見返りがないこんな夫でいいんだろうか。とはいえエリーザベトも負けておらず、弟が戦死した折は、うまいこと周囲を動かして再度お悔やみの手紙を夫に書かせ(言い訳ばっかりだが)、素通りされた折にはフリードリヒの大好物のさくらんぼを贈って夫を謝らせている。凄まじく交渉能力が高い人の予感。大体の人と仲良くなれる性質らしく、男性であれば外交官として活躍したかも。
フリッツくん、お前の嫁、ただものではないかもしれないぞ
自分たちの間に子供が生まれず、フリードリヒの命で、妹ルイーゼ・アマーリエが、プロイセン王位継承順位第一位のアウグスト・ヴィルヘルムに嫁ぐ。

 

1742年

31.A LA MÊME.(王妃へ)

Chrudim, 21 avril 1742.

Madame,
Je vous suis bien obligé de lavis que vous me donnez,
et de la lettre que vous m’envoyez de l’officier hussard;
je m’en servirai, en cas de besoin, pour découvrir la noirceur de la cour de Vienne,
pour laquelle tous les moyens sont licites, pourvu qu’ils les conduisent à leur but.
Ils ont brûlé leur propre pays en Moravie, rompu frauduleusement leur paix avec les Turcs,
répandu des calomnies et des mensonges en toute l’Europe;
il ne leur manquait que des assassinats pour couronner l’œuvre.
Je vous prie cependant de n’en point faire de bruit,
et de tenir la chose cachée jusqu’à ce qu’il soit à propos que je la fasse éclater.
Je suis avec bien de l’estime, etc.

**

31. 同じように。

1742年4月21日、クリュディム※1

マダムへ
私は、あなたが送ってくれた騎兵将校の手紙に大変感謝しています。
必要であれば、この手紙を使って、ウィーン宮廷の闇を暴きたいと思います。※2
モラヴィアで自国を焼き払い、トルコとの和平を破り、ヨーロッパ中に誹謗中傷と嘘を撒き散らしました。
彼らが欲したのは、戴冠※3 のための人殺しです。
しかし、私はあなたにお願いしたいのですが、そのことで騒がないでほしいのです。
そして、私が暴露するのに適切な時期が来るまで、そのことを隠しておいてください。
尊敬しておりますことを、繰り返しお伝えします。

**

※1 チェコのフルディム
※2 クラインシュネンドルフの密約はさっくり反故にされましたんで、プロイセン側もウィーンの動向を探っていたと思われます
※3 現皇帝はバイエルンのカール7世ですが、そんなのウィーンは認めませんこのお馬鹿さんが!!なので、マリア・テレジアのフランツ・シュテファンを帝位に据える為には手段をえらばらないということだと。
先の手紙よりクラインシュネンドルフの密約など、重要機密事項を王妃も把握してたと思われます。
たぶん夫婦間の手紙のなかに紛れ込ましていたのかなと。
夫氏の期待を裏切らない、有能な連絡役の嫁殿である。

(海藻さん訳)

32. A LA MÊME.

Champ de bataille de Chotusitz, 17 mai 1742.

Madame,
Dieu merci, nous nous portons tous à merveille, et nous avons battu les Autrichiens comme il faut. C’est une action plus grande et plus complète que celle de Mollwitz, et nous y avons acquis une gloire immortelle pour nos troupes.
Nous avons eu peu de pertes, et l’ennemi beaucoup.
Adieu; je suis avec bien de l’estime, etc.

**

32、同じ

コトゥジッツの戦場より、1742年5月17日

マダム、
神に感謝、みんな頑張っています、そして私たちは正々堂々とオーストリア人を倒しました。モルヴィッツの時よりも、より大きく、より完成度の高い勝利となり、私たちは私たちの軍隊によって不滅の栄光を手に入れたのです。
犠牲者は少なかったけれど、敵は多かった。
さようなら。尊敬の念を持っています。

**

コトゥジッツの戦い直後の手紙ですね!勝ったぞーい

(みやずみ訳)

33. A LA MÊME.

Camp de Brzezy, 25 mai 1742.

Madame,

Il faut vous aimer lorsqu’on vous connaît, et la bonté de votre cœur mérite qu’on l’estime. Je vous suis infiniment obligé des soins que vous prenez pour approfondir la vérité de la nouvelle que l’on vous a débitée. Vous pouvez être hors d’inquiétude, madame, d’autant plus que les Autrichiens sont si battus et si découragés, qu’assurément ils penseront à toute autre chose qu’à des assassinats et à des conspirations. Notre campagne est finie, et je crois que je pourrai peut-être au mois de juillet être de retour à Berlin; je ne saurais le dire positivement, mais il y a grande apparence que ce coup décisif achèvera la maison d’Autriche.
Faites, je vous prie, mes compliments à mes frères et sœurs, à la belle-sœur, à la Morrien, Camas et Montbail.
Je suis avec toute l’estime imaginable, etc.

**

33.

1742年5月25日 ブリーズィーの野営地

マダムへ

あなたはあなた自身を理解し愛さなければいけませんが、あなたの心の良さは尊敬に値します。
私はあなたからいただいたニュースの真相を深めるためのお心遣いに、限りなく恩義を感じています。
安心してください。
マダム、心配する必要はありませんよ、
特にオーストリア人は打ちのめされ落胆 ※2しているので、
彼らは暗殺と陰謀※1 以外のことは考えていないでしょう。
選挙戦は終わり※3、7月にはベルリンに戻れるかもしれませんが、結果はどうなるかは分かりません。 
肯定的には言えませんが、この決定的な一撃※2でオーストリア大公家とは決着がつきそうです。
兄弟姉妹、義妹※4、モリエン、カマス、モンベイルにお褒めの言葉をお願いします。
私のできる限りの尊敬の念を、繰り返しお伝えします。

**

※1 暗殺と陰謀→『プロイセン王の誘拐暗殺事件が進行している。』が、『この事件の首謀者はトスカーナ公』ということにして、トスカーナ公を貶めるためのプロイセンバイエルンの陰謀という話が出たりと、カオス。
トスカーナ公→皇帝選挙後はフランツ1世として戴冠
※2 オーストリアから帝位が離れたこと
※3 神聖ローマ皇帝選出選挙。同年1月20日バイエルンの選帝侯が選出されカール7世で2月に戴冠。でも戴冠式ローマ教皇は来てくれなかったので(帝位の戴冠はローマ教皇が行います)
ケルン大司教(選帝侯)でドイツ騎士団総長の弟にやってもらった
※4 1742年1月6日からプロイセン公の妻で、王妃の妹であるルイーゼ・アマーリエ(1722年1月29日~1780年1月13日)のこと。
19歳でお嫁に来ました。が、夫婦仲は微妙…

(海藻さん訳)

*メモ*

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について。

神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のもので、ここで選ばれたカール7世は、皇帝位を僭称した」というふうに、軽い読み物だといわれますが、事情はすこし異なります。このお手紙にある通り、神聖ローマ皇帝は選挙によって選びました。もちろん、選挙権が神聖ローマ帝国内の人全員にあるわけではなく、選ばれた貴族や聖職者(「選帝侯」といいます)が集まって決めます。
フリードリヒ二世は選帝侯(ブランデンブルク選帝侯)であり、皇帝選挙の選挙権を有していました。彼は、オーストリアと交戦しているにも関わらず、基本的な外交スタンスとして、「シュレジェンプロイセンに割譲されるのを条件に、トスカーナ大公に投票する」という姿勢は崩していません。それがオーストリアを、はらわたが煮え繰り返るほどイラつかせました。たぶん狙ってやっているのでしょうね*2。このように、投票権をうまく使うと、選帝侯は候補者からより有利な条件を引き出すこともできます。
つまり、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のものでもなんでもなく、単に、「選帝侯達によって選出された神聖ローマ皇帝が、このたびハプスブルク家の出身者ではなかった」、ということになります。
カール7世はヴィッテルスバッハ家の出身。ヴィッテルスバッハ家とはハプスブルク家と肩を並べる名門であり、中世期には神聖ローマ皇帝を出しています。

34. A LA MÊME.

Camp de Kuttenberg, 22 juin 1742.

Madame,
J’ai la satisfaction de vous annoncer la conclusion de la paix, ce qui me procurera le plaisir de vous voir le 12 à Berlin. Je compte d’y arriver le midi, et de dîner chez la Reine, où elle sera.
Tout part ici, et s’en retourne chez soi, ce qui accoutume petit à petit à voir moins de monde que de coutume. Je souhaite de vous trouver en bonne santé, vous assurant de l’estime infinie avec laquelle je suis à jamais, etc.

**

34、同様

クッテンベルク(※1)の野営地、1742年6月22日

マダム、
12日にベルリンであなたにお会いできる楽しみを味わえるという、講和締結を喜びをもってお知らせいたします。正午に到着し、王妃のいる彼女の邸宅で食事をするつもりです(※2)。
皆ここを去って家に帰っていくので、いつもより私たちの周りに人がいなくなったことに、少しずつ慣れています(直訳:皆がここを去り、家に帰っていくことは、私たちにいつもより少ない人数を見ることを少しずつ慣らします)(※3)。健康であなたにお会いし、私の永遠に抱くあなたへの無限の尊敬を証明したいと思います。

**

※1:現在のチェコボヘミア州の都市、クトナー・ホラ
※2:もったいぶった言い方してるけど、「一緒にご飯食べよう」ってことですね?
※3:王様寂しがり屋なのかな……

 (みやずみ訳)

35. A LA MÊME.

(Août 1742.)

Madame,
Comme vous désirez d’avoir la Camas dans la place de madame de Katsch, il n’y a rien que j’y oppose.
J’ai trouvé simplement à propos de lui donner le titre de comtesse,
pour l’amour du monde, qui cependant ne lui coûtera rien, et ne peut lui être à charge.
J’espère de vous revoir le 9, et suis avec bien de l’estime, etc.

**

35.

1742年8月

マダムへ
Katsch夫人の後任にCamas夫人※1 を据えることに私は反対いたしません。
私は宮廷の為※2 にも彼女に伯爵夫人の称号を与えるのが適切だと思いました、
しかし(職務または称号にたいして)それなりの報酬が必要になりますね。※3
9日にまたお会いできることを楽しみにしています
そして尊敬しておりますことを、繰り返しお伝えします。

**

※1 カマス夫人(Sophie-Caroline de Camas 1766年7月2日没) は1742年8月に王妃の女官長となり、
同月11日には伯爵夫人となりました
※2 原文→世界の為
※3 原文→費用をかけずに負担をかけることはできません。
※4 アーヘンから帰国した国王は、9月11日にポツダムに到着し、15日にベルリンへ行きました。

 (海藻さん訳)

1744年

36. A LA MÊME.

(1744.)

S’il est arrivé quelque nouvelle infortune à votre frère,(c) il doit s’en prendre à lui-même, car lorsqu’il a été à Riga, il a intrigué avec les gardes et avec toutes sortes de personnes, ce qui a donné lieu qu’on le resserra de plus près. Comment voulez-vous que je m’intéresse pour lui? Je le puis d’autant moins, que l’Impératrice me soupçonne de vouloir le rétablir sur le trône. Je suis toujours du sentiment qu’on le relâchera avec le temps, principalement lorsque la paix avec la Suède sera faite. Peut-on trouver étrange que l’Impératrice prenne des sûretés pour sa personne? Si le prince Antoine revenait sur l’eau, ne ferait-il pas enfermer la princesse Élisabeth? Eh bien, pour ne point être enfermée, elle enferme l’autre. Je trouve ce procédé tout simple.

c : Voyez t. II, p. 62, 63, 111, 112, 113 et 114; t. III, p. 23 et suivantes, et p. 33; t. XVI, p. 407; t. XXV, p. 645; et ci-dessus, p. 21 et 22.

**

36、同様(王妃へ)

1744年

もしお兄様(※1)に新たな不幸が起きたのならば(c)、彼は自分自身を責めなければならない。というのも、リガにいた時、彼は護衛を含め様々な人とともに陰謀をめぐらし、その結果として、より厳しく監視されるようになったからだ。どうやって(そんな)彼に関心を持てばいいんだ? 女帝が、彼を政権の座に戻したがっていると私のことを疑っているから、もうこれ以上は無理だ。スウェーデンと平和が成った暁にこそ、釈放されるのではないかと私はまだ感じている。(けれども)女帝が自分の身を守ることの奇妙さを、指摘することができるか?アントワーヌ公が海(※2)から戻ってきたら、エリザヴェータ皇女を監禁しないとでもいうのか?そう。監禁されない為に、彼女は彼を監禁した。この出来事はとてもシンプルなことなんだ。

c : t. II, p. 62, 63, 111, 112, 113及び114; t. III, p. 23以降,、そして p. 33; t. XVI, p. 407; t. XXV, p. 645; p. 21と22参照。

**

若干慇懃無礼とはいえ王妃様に丁寧な言葉遣いをするタイプの王様が、珍しくも本音のようなものをぶつけています。マダムという呼びかけもない!なので若干乱暴な調子にしてみました。
キレすぎて、フリードリヒ二世の国際政治におけるリアリズム思考が全開のお手紙。
フリードリヒ二世を研究する国際政治学者だったらおどりだしたくなるほど面白い手紙だろうけど、兄が監禁されて心細くなっているだろう王妃様に向かって叩きつけると、ひどく絶望してしまうような文面ですね。王様、聡明怜悧かもしれないけど相手の立場に立っていない、つまるところモラハラ発言。反省すべき。

※1:エリーザベトの兄、アントン・ウルリヒ。息子をロシア皇帝にしてロシアの実権を握っていたが、エリザヴェータ皇女(のちのエリザヴェータ女帝)により失脚。リガに幽閉される。
※2:リガはバルト海の真珠とも称えられるバルト海に面した港町であり、また当時のロシアの首都のサンクトペテルブルクバルト海に面しているので、もしアントン・ウルリヒ公がエリザヴェータ女帝から位を奪い返しにくるなら海から攻めるだろうなと考え、海と解釈しました。

 (みやずみ訳)

1745年

37. A LA MÊME.

(Camp de Soor) 2 octobre (1745).

Madame,
Vous saurez apparemment ce qui s’est passé avant-hier.a Je plains les morts,
et les regrette; mes frères et Ferdinand se portent fort bien.
On dit le prince Louis blessé. Je suis avec bien de l’estime, etc.

 ※1 Le prince Albert de Brunswic, frère de la Reine, né en 1725, fut tué à la bataille de Soor. A cette occasion, Frédéric écrivit à son trésorier privé Fredersdorf, le 2 octobre 1745 : « Der gute brave Wedell ist todt; Albert auch, ist nicht viel verloren. »

※2,3 Le prince Louis-Ernest de Brunswic, autre frère de la Reine, naquit en 1718,
et entra, en 1737, dans l’armée impériale. En 1740, il devint général-major, et en 1743 feld-zeugmestre général. Il était feld-maréchal impérial à l’époque de sa mort, arrivée le 12 mai 1788. Il servit aussi la république des Pays-Bas. A la bataille de Soor,son frère, le célèbre prince Ferdinand, le chassa d’une hauteur qu’il devait défendre.
※4 C’est au sujet de cette lettre glaciale de Frédéric que la Reine écrivait à son frère Ferdinand, le 5 octobre 1745 : « Je suis accoutumée à ses manières, mais cela ne laisse pourtant pas que j’y sois sensible, surtout dans une occasion pareille, où un de mes frères a terminé sa vie dans son service; c’est trop cruel d’avoir ses manières. »

**

1745年 10月2日 ゾーアの野戦地

マダムへ

あなたは一昨日の出来事を明らかにご存知だと思いますが、お悔やみ申し上げます。※1
私の兄弟とフェルディナンド※2 はとてもよくやってくれています。
ルイ王子※3 は負傷したそうです。
尊敬しておりますことを、繰り返しお伝えします。※4

 ※1 1725年生まれのブラウンシュヴァイクのアルブレヒトは、王妃の弟で、ゾーアの戦いで戦死しました。これをフリードリヒは1745年10月2日、会計係のフレダースドルフに次のような手紙を書きました。「ウェッデルもアルブレヒトも死んだ 。多くは失われていません。」

※2,3 王妃の弟のルートヴィヒ・エルンスト フォン ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルは1718年に生まれ、1737年に帝国陸軍に入隊しました。1740年には少将となり、1743年には歩兵大将となる。1788年5月12日に発生した死亡時の皇室の野戦元帥です。オランダ共和国にも仕えました。ゾーアの戦いでは、彼の弟で有名な(アルブレヒトの兄の)フェルディナンド王子は敵軍に占領された高地を攻略しました。

※4 それは、1745年10月5日に王妃がが弟のフェルディナンドに書いたフレデリックからの冷たい手紙のことでした。「私は夫の振る舞いは慣れていますが それを容認したわけではありません。特に私の弟の一人が戦死した時、彼の仕打ちはあまりにも残酷です 」

**

ロシアにいる兄上への対応に引き続き、弟の戦死に対して一言だけ。そりゃあんまりだ。
嫁殿が実弟に残酷だと嘆くのもごもっともです。
ゾーアの戦いではブラウンシュヴァイクの兄弟たちは敵味方で戦うことになります。
王妃の実家はオーストリアの皇后の御実家でもあるので、このあたりが王妃とプロイセン側にいる兄弟の立場を微妙にしているのかも。

(海藻さん訳)

38. A LA MÊME.

Camp de Trautenau, 9 octobre 1745.

Madame,
J’ai déploré la mort de votre frère le prince Albert; mais il est mort en brave homme, quoiqu’il se soit fait tuer de gaîté de cœur et sans nécessité. Il y a déjà du temps que j’ai averti le Duc de ce qui ne pouvait manquer d’arriver; je l’ai dit souvent au défunt, mais il ne suivait que sa tète, et je m’étonne qu’il n’ait pas été tué il y a longtemps.
Le prince Ferdinand a une contusion au genou, mais il sort, et se porte bien. Je vous plains, madame, du chagrin qu’il est naturel que vous sentiez de la mort de vos proches; mais ce sont des événements auxquels il n’y a aucun remède. Je suis avec estime, etc.

**

38、同様

トラウテナウの野営地、1745年10月9日

マダム、
あなたの弟ぎみのアルブレヒト公子のことを悼んでいます。彼の死は必要なく、愉悦心から殺されたにも関わらず、勇敢な男として死にました。公爵(※カール1世でしょうかね)に、これは当然の成り行きだともうすでになんども諭しています。死んだ人に常にこのことを注意してきましたが、けれど、彼は自分の意思にのみ従い(=自分勝手な行動ばかりで)、とっくの昔に殺されなかったことの方が私は驚いています。
フェルディナンド公子は膝に傷を負いました。でも、彼は戦場に出て、戦果を挙げています。マダム、愛する人が亡くなったときに抱くあなたの自然な悲しみに、心からお悔やみ申し上げます。しかしこれは、仕方のない出来事です。尊敬の念を持っています

**

2日に送ったお手紙(37)について、王妃様が弟のフェルディナンドを通じて「私の弟が死んだのに夫の手紙の短さはどういうこっちゃ(意訳)」と5日に書き送り、その四日後に改めて弟の死を悼んだ手紙となります。王様、前回も似たような過ちを犯していたよな(22参照)。

ただ王様もその弟、アルブレヒト公子の死にかなりイラつくところがあったようで凄くいいたい放題です。ひょっとしたら王様は独断専行の傾向のある(王様曰く)アルブレヒトのことにムカついていて、その死に際して一行くらいしか書けなかったのかもしれません。でも弟を亡くして悲しんでいる奥さんにやってはいけませんね。

王様、最近、王様の中では正論かもしれないけど、王妃の親族について王妃に本音トークし過ぎである。王妃は嫁であって王様の母ちゃんじゃねえぞ

1747年

39. A LA MÊME.

(Juillet 1747.)

Madame,

Je vous remercie des belles cerises que vous m’avez envoyées à Schönhausen.
Si je n’avais été fatigué, je vous en aurais remerciée moi-même. Je prendrai cependant mon temps pour le faire à la première occasion, vous assurant de l’estime avec laquelle je suis, etc.et suis avec bien de l’estime, etc.

※1 Le 15 juillet 1747, Frédéric, revenant de Stettin, passa par Hohen-Schönhausen, près de Nieder-Schönhausen, où se trouve le château royal occupé alors par la Reine.

**

39.

(1747年7月)

マダムへ
シェーンハウゼン※1 では美しいサクランボ※2 を送っていただき、ありがとうございました。疲れていなかったら、あなたに自ら感謝したでしょう。
できる限り早い機会に時間をかけて、尊敬しておりますことを繰り返しお伝えします。

※1 1747年7月15日、シュテッテンから帰国したフレデリックは、ニーダーシェーンハウゼン近郊のホーエンシェーンハウゼンを通過した。
※2 サクランボは夫氏の好物。1粒1ターラーでも支払います。
1ターラー→現在の日本円で1万~2万弱
ニーダーシェーンハウゼン→シェーンハウゼン宮殿のあるところ
ホーエンシェーンハウゼン→シェーンハウゼン宮殿から西南

(海藻さん訳)

つまるところ嫁の居場所をうっかり素通りしてしまったという……

*メモ*

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見事に自滅したフリードリヒ二世は、どんな感じでエリーザベト妃のいるシェーンハウゼン宮殿を素通りしてしまったのでしょう。贈られたさくらんぼを抱えて恐縮するしかないのでしょうか。せめて挨拶に行けないのでしょうか。

出発地点がフリードリヒ二世のいるところ。赤矢印が王妃のいるシェーンハウゼン宮殿。

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歩いて2時間ちょっとの距離。そりゃあせる。
今から妻のところへ挨拶に行くととんでもない時間になりそう。

電車を使う。

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1時間ちょっと。歩くよりはマシか……乗り換えが大変そう

でも18世紀、電車ないし。

しかたがない。BMWフォルクスワーゲンで行くしかない。

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30分かからずつきそう!これはいける!!

でも18世紀にBMWフォルクスワーゲンもない。

あるあるだけど電車の方が車より遅いとは……???

しかたがない。自転車で行くしかあるまい!!

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30分少し。18世紀に自転車ないけどな

電車に乗るより自転車に乗った方が早いドイツの不思議

やっぱり無理か、現代人ならまだしも……と思いきや、自転車と馬車の速度、馬と自動車の速度はだいたい似たり寄ったりらしい

なんだ普通に王妃のところに寄れるじゃん(海藻さんと私の結論)

なんでここまで王様が焦っているのか わけがわからない 王妃様からのさくらんぼが不意打ちすぎて大混乱だったのでは 夫氏しっかりして という手紙でした

夫氏、やってしまった。
36通目からすでにダメ夫である姿しかみせていないのですが、39通目において完全にポンコツな夫になってしまいました。
当時、王様は体調を崩すほどの激務であったというので仕方がないのかもしれませんが、往復1時間ほど王妃様のために馬車を飛ばしていただく余裕はなかったのでしょうか

逆にエリーザベトは夫が通るであろう道と時間を把握し、新鮮なさくらんぼをその時にあわせて入手していたということで……

プロイセン王妃の猛者っぷりを感じます

40. A LA MÊME.

(Juillet 1747.)

Madame,
Vous pouvez venir à Charlottenbourg, s’il vous plaît, lundi(a) à une heure, avant la Reine. Vous pouvez y loger madame de Camas et la Tettau, qui auraient peine d’y venir tous les jours descendre du faite du château. Si vous avez deux femmes de chambre et chacune de ces dames une, c’en sont quatre, et je crois que c’en est assez. Pour les cavaliers, ils peuvent rester à Berlin, et n’y venir que les jours de fête.
Je suis, madame, avec bien de l’estime, etc.

a: 1er août 1747.

**

(1747年7月)

マダム、
シャルロッテンブルク(※1)へお越しください。王妃(※2)の前、月曜(a)の一時でお願いします。毎日王宮から出てくることの難しいカマス夫人とテッタウとの宿泊が可能です。もし、女官を二人連れて行き、それぞれに夫人が一人づつつくなら(※3)、四人になります。私はそれで十分だと思います。騎士(護衛/お付きの侍従)たちは、ベルリンに置いていってください。休日にのみ来させてください。
マダム、私は、深い尊敬の念を持っています。

a: 1747年8月1日

**

シャルロッテンブルクに来いよ!
王妃様の宮殿を素通りしたあと、大好物のサクランボが送られて、王様が大混乱しているサクランボ事件(39)がその少し前にあったから、夫は考えたのかもしれない。
よし。ベルリンの代表的観光地の一つにヨメを連れて行き、機嫌を直してもらおう、そして、あわよくばもう少しばかりヨメからサクランボをもらおう、と。(※プロイセンの18世紀を知らない人間による妄言)
「できる限り早い機会に時間をかけて」と(39)で述べているので、今回はその「機会」なのかもしれません。

※1:シャルロッテンブルクとは、たぶんシャルロッテンブルク宮殿。フリードリヒ1世(王様のお祖父ちゃん)が亡き王妃ゾフィーシャルロッテを偲んで作らせたもの。どうやらフリーメイソンのロッジがあったらしい。
※2:王妃が来る前、では意味が通らない(まさかこの夫としてポンコツな王様とはいえ王妃に「王妃の来る前に」とはいわないだろ)ので、待ち合わせ場所のことを指しているのかなあと思いました。シャルロッテンブルク宮殿はゾフィーシャルロッテ王妃ゆかりの宮殿ですから、彼女の像とか、彼女の部屋とか、そういうものがあったのかもしれません。もうひとつは、王母ゾフィー・ドロテアが生きているので、彼女のことかなあ。母上が来る前に来てね!という。
※3:ここのところ、18世紀の侍女や女官の事情に詳しい人は教えてください。カマス夫人とテッタウと、王妃様の名もなき女官を連れて四人なのか、カマス夫人とテッタウと、またあと四人女官がくるのか……

*1:すでにフリードリヒの妹であるフィリッピーネが、エリーザベトの兄のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世に嫁いでいるため、ここにおいてホーエンツォレルン(プロイセン王)家とブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家は三重結婚関係を結んだことになる。

*2:その条件を突きつける直前にシュレジェンに侵攻しているので。