Don't mistake sugar for salt.

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳してみよう〜②

ちょっと変わった仲の18世紀プロイセンの王様と王妃様の文通を、海藻(kaisou-ja)様と訳してみました(⌒▽⌒)

残念ながら、私はたまたま18世紀の王妃様を調べていた時に書簡が公開されているのを見つけたもので、フランス語はおろか、18世紀プロイセンに造詣がありません。豆腐メンタルでもありますので間違いがあれば優しくご教授ください。

*メモ*

夫である人:フリードリヒ二世(大王)。プロイセン王太子→国王。オーストリア継承戦争七年戦争を勝ち抜いた軍事史上稀に見る天才であり、芸術・哲学に造詣が深い。即位してからは妻と別居するが、王太子時代は妻と同居している。別に妻が嫌いとかそういうわけではないらしいが、妻に塩対応になりがち。どうやら繊細で気難しい性格らしい。

妻である人:エリーザベト・クリスティーネ。プロイセン王太子妃→王妃。実家がオーストリアマリア・テレジア外戚かつロシア皇帝外戚の、いいところのお嬢様。お金持ち。夏は夫から送られたシェーンハウゼン宮殿に住まうことになった。夫に常に砂糖対応。稀に夫からの塩対応にキレることも。どうやら温厚で人付き合いの上手な性格らしい。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世:プロイセン王。フリードリヒ二世の父。息子とは複雑な関係である。1730年5月に死去するので、話題はもっぱらこのお方の病気のこと。父が死ねば国王に即位しなければならないので、王太子殿下は非常に苦しむ。

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世:エリーザベトの兄。妻がフリードリヒ二世の妹。つまるところ二重結婚(さらにフリードリヒとエリーザベトの弟妹がまた結婚し三重結婚になる)。プロイセンに妹をやりつつ、神聖ローマ皇后エリーザベトの甥、マリア・テレジアの従兄であることから、オーストリアとも繋がりのあるお方。兵と金を多量に持っており、兵が欲しいフリードリヒ二世と激しいやり取りをしている模様。

ブランデンブルクバイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネ:フリードリヒ二世の最愛の姉。ヴィルヘルミーネを前にするとフリードリヒ二世はマジもんのシスコンぶりを発揮するらしい(一説には銀河英雄伝説のラインハルトと銀魂の志村新八と封神演義の燃燈道人と聖闘士星矢魚座のアモールを足して四で割ってないレベルらしい)。どんだけやねん。姉が体調不良のようで、フリードリヒ二世バイロイトへ行くことに。エリーザベトにおみやげとして扇子を渡すようフリードリヒにお使いを頼む。姉という生き物は弟が王に即位していようとパシリに使うのだ。
(ただ、不思議なことに1740年夏にベルリンに立ち寄っていたそうなのに、夫婦の手紙には一切そのことについて言及がない。夏にはエリーザベトはシェーンハウゼン宮殿で過ごしており、フリードリヒは王妃に一言くらい告げても良さそうなものだが……)

  • 1739年
    • 11. A LA MÊME.(王太子妃へ)
    • 12. A LA MÊME.
  • 1740年
    • 13. A LA MEME.
    • 14. A LA MÊME.
    • 15. A LA REINE.(王妃へ)
    • 16. A LA MÊME.
    • 17. A LA MEME.
    • 18. A LA MÊME.
    • 19. A LA MEME.
    • 20. A LA MÊME.

 追記から。

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フリードリヒ大王と王妃の文通を翻訳してみよう〜①

ちょっと変わった仲の18世紀プロイセンの王様と王妃様の文通を、海藻(kaisou-ja)様と訳してみました。

残念ながら、私はたまたま18世紀の王妃様を調べていた時に書簡が公開されているのを見つけたもので、フランス語はおろか、18世紀プロイセンに造詣がありません。豆腐メンタルでもありますので間違いがあれば優しくご教授ください。

*メモ*

夫である人:フリードリヒ二世(大王)。プロイセン王太子→国王。オーストリア継承戦争七年戦争を勝ち抜いた軍事史上稀に見る天才であり、芸術・哲学に造詣が深い。即位してからは妻と別居するが、王太子時代は妻と同居している。別に妻が嫌いとかそういうわけではないらしいが妻に塩対応になりがち。どうやら繊細で気難しい性格らしい。

妻である人:エリーザベト・クリスティーネ。プロイセン王太子妃→王妃。実家がオーストリアマリア・テレジア外戚かつロシア皇帝外戚の、いいところのお嬢様。お金持ちであり、王太子王太子妃時代の住まい(ラインスベルク宮殿)は彼女のお金で建てた。夫に常に砂糖対応。稀に夫からの塩対応にキレることも。どうやら温厚で人付き合いの上手な性格らしい。夫の難儀な父とも夫の個性豊かな弟妹とも上手に付き合える稀有な人材。

ルピーン(ルッペン):プロイセンの第十五連隊の駐屯地がある。フリードリヒ王太子の勤務先。ラインスベルク宮殿から通っていたらしい。

**

翻訳のまとめ、その①です。
とりあえず10通目まで。

原文ページ→

http://friedrich.uni-trier.de/de/oeuvres/26/toc/text/

最初は、フリードリヒ二世即位1年前、1739年のお手紙から始まります。

  • 1739年
    • 1. A LA PRINCESSE ROYALE.(王太子妃へ)
    • 2. A LA MÊME(同様).
    • 3. A LA MEME.
    • 4. A LA MÊME.
    • 5. A LA MEME.
    • 6. A LA MÊME.
    • 7. A LA MÊME.
    • 8. A LA MÊME.
    • 9. A LA MEME.
    • 10. A LA MÊME.

追記から参ります。

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麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その⑤

熊本の病弱な隠れ名君が大奮闘!最後はとうとう、島原の乱に駆り出されます。

 

✿読んでる本✿

 今まで、なんって戦国時代はジャイアニズムなんだ!とか、主人公の家督相続が黒すぎる!とか戦国武将の父上の過干渉がしんどい!とか新天地熊本で体壊した!!だが名君しぐさでことなきを得た!!とかいう話をしてきました。

ちょっと話を変えましょう。

1595年、京都で、会津若松城主(黒川城主)が40歳の若さで死にました。彼は、非常なる名君かつ名将として有名でしたが、病には勝てませんでした。彼はキリスト教徒になったりキリスト教徒であることをやめたり、常に逡巡していたそうですが、最後は親友の掲げる聖像を見つめながら、この世を去ったといいます。

その5年後の1600年。大坂で、一人の大名の妻が、敵方の人質になることを拒んでいました。彼女は屋敷に火を放ち、その炎の中、家臣に胸を突かせて死にました。自殺を選ばなかったのは、彼女が自殺を禁じるキリスト教の敬虔な信者だったからです。

時は飛んで、1614年。とある一人の戦国武将が、日本を離れようとしていました。彼は親友である細川忠興に「帰らじと 思えばかねて 梓弓 亡き数に入る 名をぞ留る」という、楠木正行*1の辞世の句を掛け軸に書いて送り、そして、一年も経たないうちに、遠いフィリピンのマニラでなくなりました。
何故、武将として優秀だった彼がわざわざ海を越えて、遥かなるマニラへ行ったのかといえば、当時、彼の熱烈に信じているキリスト教が迫害されていたからです。

この三人、つまり蒲生氏郷細川ガラシャ明智珠)、高山右近は、予想もしてはいなかったのではないでしょうか。

氏郷と右近にとっては無二の親友・細川忠興の病弱な三男坊、ガラシャにとっては病弱で心配の種である三男の細川忠利が、江戸幕府の安定化をはかるために、キリスト教と農民反乱が結びついた、島原の乱に対処するなんて。

九州のオカン役、忠利

島原の乱が起きた時、細川忠利は50代でした。

実は当時の彼は、将軍徳川家光に意見できるほど、幕政に参画し、江戸幕府でかなりの力を持っている重臣となっていたようです。

九州大名の指南役を自任し、後輩である薩摩藩の大名・島津光久や、同僚である日向延岡藩主の有馬直純にいろんなアドバイスをしています。いや、手紙を見る限り九州大名の指南役というよりオカン役といったほうが正しいですね。こいつ、母親でもないのにうざいくらい世話をよく焼いてくれるんだ。オカン気質なのかもしれない*2

島原の乱が起きた時のオカン役は体調不良。

さて、この九州のオカン役……げふげふ指南役ですが、島原の乱が起きた時、かなり重い、療養が必要なレベルの病気でした。

この人いっつも病気では……?(失礼)

ちょっと、三月のライオンの島田八段を想起しちゃったじゃないか

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こんなイメージを……抱いてしまうじゃないか!!! 

当て推量ですが、非常に病弱でいつ死ぬかわからない我が子を、生まれた時から見ているからこそ、父親の忠興は息子に無理をさせたくなくて、積極的に忠利の政治に介入(忠興的には全力で協力)したのかもしれません。

お前の存在が忠利の過労とストレスにつながっているんだよ、忠興ぃぃぃ!」と言わんばかりの本書なんですけど、 以下のご本だと、忠興が、いかに体が弱いのに無理を繰り返す忠利を心配していたかがわかります。  

キリシタンを特定する方法はないと言わざるをえない。根絶不可能な宗教だ。

さて、忠利が体を壊し、鎌倉で療養していた1637年冬、島原で農民反乱が勃発します。

ねぇ島原ぁ、ちょっと圧政じゃない?

もともとは、島原を治めていた松倉家が圧政を敷いていたことが原因でした。前記事のその④でも述べたように、かなり寛永期は異常気象が多く、九州は水害に悩まされていたそうです(現代でも九州には水害が多発していて、うう、今現在でも進行中ですね。熊本県をはじめとする九州の方々のご無事をお祈りしています……。これ以上ひどくなりませんよう)。

忠利など、優秀な藩主は農民を救済するなどして対応に当たっていましたが、そうでない藩主ももちろんいます。
それが松倉家でした。異常気象で飢饉が勃発している中、ひどい重税をかけたり、百姓を酷使したりしていました。そりゃ不満も溜まります。

しかも、九州のもともと天草領は、先ほど述べた有馬直純という人物が治めていました。有馬家は父・晴信の代からキリスト教を信奉していた家系。つまり、キリシタンの領民が数多くいたのです。それが、領主様を慣れ親しんだ有馬の殿様から松倉とかいうやつに変えられ、禁教令で迫害され、棄教させられ。
島原藩キリシタン弾圧てのは苛烈を極めたそうで。……そりゃ不満が溜まります。

信仰する宗教をかなり強制的に棄教させられるのみならず、慣れ親しんだ殿様ではない人間から受ける、非常な苛政に苦しんだ百姓が、抑制できないレベルのフラストレーションを溜めたことは、容易に想像できます。

さて、フラストレーションが溜まった百姓は暴徒化して各地を襲うようになります。

中にはキリシタンでない村を襲ってキリシタンに改宗せよと迫り、焼き払ったりしたとか。ううん、迫害された側が今度は迫害する側に回る、なんだかやるせないなあ。

本書ではこれを一揆による改宗強制としています(そもそもが弾圧で改宗を強制させられた人々の、闇落c……げふげふ暴徒化しての暴挙なので、「改宗強制」よりもっと適当な言い回しがあるんじゃないかなあ、と無知な私はちょっと引っかかりました。けれど、それしか言いようがないんだろうなあ)。

松倉家の例を見ると、細川忠利は名君なんだなぁ、とわかります。

民を大切にしよう、という時流になりつつあり、忠利など、その思想を取り入れて政治をしている大名もいる中で、松倉家は完全に発想が「民から搾りつくす(リアルに)」「従わなければ極刑!」とおかしな方向にイっています。しかも、島原には転封したて(=まだ民との信頼関係はできていない)なのに、このような民を刺激する政策をとった時点で、そりゃあ一揆の一個や二個や三個くらい起きるだろう 起こさないわけないだろう 

あまり詳しくない本になると「病弱で気弱な三男」と書かれていたり、前田利常や山内忠義池田光政保科正之など、錚々たる名君の影に隠れてますけど、忠利も民にとってはかなり「当たり」の方の藩主だったのだなと。

忠利「キリシタンとは」 

ちょうど島原藩とは島原湾を挟んでお向かいにある熊本藩は、この松倉家の問題に関わらざるを得なくなります。忠利は「島原に行かせてください」と幕閣に願い、重病をおして出陣します。

忠利、お前ってやつは本当に真面目だなあ。

で、だな。意味深なのが、忠利が、キリスト教について、幕臣の一人にアドバイスしているところなのです。

転んでも(改宗しても)、また成り帰るといいさえすればキリシタンに戻れてしまう。今度の一揆のようなことが起これば、キリシタンを特定する方法はないも同然だと言わざるを得ない。根絶不可能な宗教だ」、と。

キリシタンの改宗は仮の姿であると認識づけられ、昔の一向一揆を支配階層は思い出したと本書はしています。

一向一揆だけではないのではないか、とちょっと思ったりもします。
冒頭で述べた通り、細川忠利はキリスト教徒の母親をもっています。十四歳という多感な時期に非業の死を遂げた母の記憶は、確実に何らかの感情を伴って存在するはずです。

ひょっとしたら、父の親友である高山右近蒲生氏郷のことも、直接会ったことはないかもしれないけれど、人となりなどを父から聞いて知っていたかもしれません。

その彼が、しかも、天下泰平と徳川幕府による秩序の維持に文字通り命を賭けている彼(禁教令も厳しくちゃんと履行しています)が、「キリシタンに戻るといえばキリシタンは信仰に立ち戻れてしまう、キリシタンを根絶する事は不可能だ」と、どんな気持ちで言ったのでしょう。複雑な感情があったのではないでしょうか。

本書では書かれていませんが、先日お亡くなりになった山本博文先生の寛永時代 というご本(この間も紹介したな……)では、島原の乱で、忠利は、自分が攻めたことによって次々といわゆる「殉教」をしていくキリシタンたちを見て感動している様子が描かれています。

どうして彼は、自分が殺したに等しい、凄まじい数の人間が死を選んでいく様に、「感動」したのか。「感動」とはどういう感情だったのでしょう。嬉しいのか、誇らしいのか、悲しいのか。

病弱で真面目なおぼっちゃま然としている彼に似つかわしくない、どろりとした感情を窺わせます。

伊達くんに愚痴る忠利

さて、島原の乱がおきた1637年当時、武家諸法度寛永令)が施行されていました。
ところが、非常時っていうものはかならず法律に穴が見つかるものでありまして。

武家諸法度の中に、第4条「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事(江戸や他藩でたとえ何か事件が起こったとしても、国元にいる者はそこを守り、幕府からの命令を待つこと)」という文章があります。自分の領地で起きた一揆は自分でなんとかしろ、他人に助けを求めるな、と規定することで、諸大名が軍事同盟を結ぶことを避けたものです。

しかし、島原の乱の場合、規模が異常でした。松倉家単独でなんとかできる規模ではなかったのです。けれど、武家諸法度第4条があるので、熊本藩主でしかない忠利は、十分な武力があるにも関わらず、そしてお向かいで炎上しているにも関わらず、手が出せないのです。

それにかなりの不満を抱いた忠利は、とうとう、交友関係のあった仙台藩主の伊達忠宗に文を書いて……

完全に牙を抜かれている……

文で今の状況について愚痴りました

「江戸からの指示を待っている間に一揆軍は勢力を強めてしまうッ!」「なんなんだよ、九州担当の幕府の役人たち、江戸にお伺いをたてるって行っておきながら、なにもしない!(意訳)」などなど。

幕府の方針にムカついたので、島原の乱に乗じて東北の伊達と結び江戸に攻めてしまおうなどという、発想は忠利(や忠宗)にはないようです。まったくもって平和な時代になったものです。

たぶん、伊達忠宗も読んでいて「細川殿も、苦労するでござるなぁ〜」と苦笑したことでしょう。日本酒「勝山」片手に。仙台味噌がおつまみで。畳に寝そべってテレビをつけ、日本シリーズ東北楽天ゴールデンイーグルスを応援しながら。

そう、かの武家諸法度第4条があるので、細川忠利がいくら悲鳴を上げようとも伊達忠宗武力行使に出られないのです。仙台だし。たぶん忠利も選んで、深刻な問題にならないよう、九州とは遠方にいる、しかも友達の忠宗くんに愚痴ったのでしょう。こいつら、完全に徳川幕府に牙を抜かれている

大大名はもう自分に逆らうことはありません。徳川家光としては「俺の幕政、成功してんじゃん!!!」というべき事案です。喉元に刃(島原の乱)突きつけられてますけどね

後日談

ちなみに、武家諸法度第4条は、島原の乱の初動の遅れと忠利たち九州の大名の不満を受けて、本文は変えないものの、微妙に細部の運用規定が改定され、このような大規模な内乱に対応できるようになりました。

30数年前は、忠宗の父(伊達政宗)が、豊臣秀吉の遺言を堂々と破って忠宗の姉を徳川家に嫁がせたり、忠利の父(細川忠興)が石田三成と戦国版サバイバル鬼ごっこをしていたという事を考えれば、どんなに混沌とした社会でも、がんばれば30年で規則化され、平和になるといえるでしょう。

ちなみに細川忠利は伊達政宗の小ネタをよく知っていると思われます。忠興が政宗のことを常々報告しているからです。政宗の面白ネタは、ほとんど忠興が握っているそうですが、その面白ネタを書いた宛先は、何を隠そう忠利です。
父上から、父上の友達の変なおっちゃんの変なネタを書き送られる忠利ってだけでただただ面白い。

たぶん、親子二人の食卓(テーブルには若くして亡くなった母と次兄の遺影がある)、仕事から疲れて帰ってきた息子に、もう定年退職(してもなんか若いのでジャズバンドみたいのしてる)父が、夕飯を並べ、ビール缶をあけながらおもむろに「今日さ、いやね、立花が言ってたから確かだと思うんだけどね、伊達がさあ……ブフッ」とバンド仲間の奇行について語る図。それが想起されるね。

しかも、そんな父上の友達の変なおっちゃんの息子に愚痴る忠利という構図、さらに面白い。

パパ上、最後の襲来 

島原の乱を乗り切った忠利ですが、次に襲ってきたのがパパ上でした。

父、忠興は本書のラスボスなので最後まで出ずっぱりです。いい加減迎えにきてくれガラシャ、忠利の身体がリアルにもたない

パパ上、再びのわがまま

パパ上は八代に隠居して悠々自適の生活を送ってきましたが、四男の立孝(忠利の21歳くらい下なんだけど妹二人を除けばすぐ下の弟)に八代を譲りたいと考えるようになります。

忠興は忠利を可愛がっていますが、あまり八代と熊本藩本府は仲が良くありませんでした。何故なら忠興が小倉でのことを反省せず八代で独自の勢力を築いたから!忠興の元をやめた祐筆に「忠利に内通しているだろう」と言いがかりをつけたりなどしています。パパ上複雑すぎる。

四男に譲りたいと思ったら即行動してしまうのが戦国武将らしい即断即決、柔軟な対応上等なパパ上です。立孝を勝手に江戸に行かせてしまい、家督を譲ったことを宣言してしまいます。事実上の独立というべきでしょう。

熊本藩の藩主の父に熊本藩のコントロールが一切効かない、すなわち熊本藩の存続を考えるという発想がないので、忠利はびっくりしました。

世の中は天下泰平、決まりやルールを守ってください、というものに変わりつつあるというのに。おい忠興、フリーダムすぎるぞ

だから、熊本藩とパパ上の間には、凄まじい緊張が走ります。

そんな中、忠利が

しかし、そんななか、1641年に忠利は息を引き取ります。享年56歳。
急死であったそうです。ですが、病弱であった体に、藩主という重責を抱えて無理を重ねたこと、また、重い病をおして戦に参加したことを考えると、「力尽きた」と捉えるべきでしょう。

ああ〜ッ!!!ガラシャそっち迎えにきちゃうのぉぉぉ〜〜〜!!!!

忠利の喪失というのは、彼の後を継いだ細川光尚と、細川忠興の対立を非常に鮮明化させてしまいます。

息子でさえ持て余していた忠興です。光尚はさらにお爺ちゃまのことを持て余し、物騒な話まで出てきます。

曰く、「忠興様の差し金で光尚様が毒を盛られそうだ」とか。「光尚様に関する情報は忠興様には決して聞かせない」「光尚様に忠興様と通じていると疑われたら迷惑」だとか。怖っ!怖っ!!お家騒動の雰囲気!!

ひょっとしたら、熊本藩の人々は団結行動を乱す忠興に不信感を抱くあまり、忠利が病弱とはいえ、急に体調を悪くしてあっけなく死んだことに、深い疑いを持ったのかもしれません。係争中であった父・忠興の差し金だと疑ったのかもしれません。
なにせ忠興は、策謀に長けた戦国武将なのですから。

逆にこの案件、「共通の敵がいれば全員団結する」の法則で、忠興を悪者にして、熊本藩内の団結を強めることになります。

1645年に、主人公より4年長く生きたラスボス、細川忠興は死去します。

でもラスボス(忠興)は主人公(忠利)を溺愛しているよ♡

さて、細川家の家族の関係は、そうとう殺伐としているのか?という本書ですので、お口直しを。
先ほども紹介した「 江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」によれば、忠興が、忠利の死にひどく混乱している様子が垣間見られます。

彼は忠利が倒れたことを知らされてすぐ、居城だった八代城から忠利のいる熊本へ赴いています。歩いて7〜8時間かかる距離を、6時間半くらいでたどり着いています。もう80こしてるのに……じじい無理すんな、いや、無理しなければならなかったのだ

嫁の顔を見たからという理由で庭師の首を飛ばす男(まだいう)の手紙だと思ってお読みください

「忠利の病気、ずっと私にかくして、良い良いとばかり言っていたので、そうかと思っていたところ、今日十四日、急に危篤だと知らされ、驚いて、(略)忠利の様子を見たところ、もうだめで、私のこともわからず、目も明かない様子だった。ああ……、(略)。私は混乱していて、なにがなんだかわからない。」
—『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社文庫)』山本博文

愛が深い。50代半ばの息子にここまで書くものだろうか。

「もうだめで、私のこともわからず」というところが、「親だなぁ」と感じました。自分のことさえわからないというところを、重症度の判断基準にしているあたりが。

そして、これの宛先が忠利の子である光尚。つまり、祖父としてもっとも気丈に振る舞わなければいけない相手です。孫相手にこんな混乱した心情を暴露するあたり、忠興がその時、非常に精神的な危機にあったことを思わせる文面です。

忠興は、正室のみならず、その所生の子供達のほとんどを生きているうちに亡くしています。娘たちは早死にし、次男の興秋は大坂の陣で大坂方につき、自害しています。今度は三男の忠利の番でした。その痛みはいかばかりだろう。

忠利が死んだ翌年、忠興は、唯一生き残っている、廃嫡したはずの忠隆を手元に招いて、和解したそうです。そこからも、正室との間では最後の一人になってしまった子供を引き止めたい、父の深い寂寥を感じる気がします。

細川忠利って結局〜江戸時代に移行するお殿様たち

本書を読んで強く感じたのが、「殿様に強い個性が必要」な戦国時代と、「殿様に個性のない」江戸時代の中間に位置する、「幕府の支配体制の中、個性を消して幕府と民のために奮闘する」細川忠利の世代の殿様たちの面白さです。

細川忠興明智光秀、いや、三英傑と呼ばれる人々を始め、戦国武将には決してできない仕事がある——、それこそ、と細川忠利のあり方を通じて本書は訴えかけています。

いくら戦国武将である彼らが民を想っていたとしても限界があります。彼らは戦争をする宿命にあり、そのことこそが民を苦しめるのです。また、いくら関ヶ原の戦い大坂の陣で「天下泰平」になったとしても平和を維持する仕組みを作る意識がなければ無理なことです。そして、家光はそれに成功したし、忠利はそれに完全なまでに従いました。

秩序だった仕組みの中で、「私」なき非恣意的な支配と民の救済をする殿様こそが名君だというプロトタイプが、ここに出来上がったというべきではないでしょうか。

はあ、非常にくだらないことを言ってもいいでしょうか!
忠利、肖像画を見ると、優しげで華奢で目が二重で色白で丸顔で、言い換えると、オッさんのくせにとっても可愛いですよね!!
浅黒くて面長で「私がハイソだ」みたいな忠興の肖像と見比べると、ガラシャは色白で丸顔だったのかもしれない(暴論)。そりゃ忠興もかわいがるわけだ(暴論)!


おしまいおしまい!お付き合いいただき大感謝です! 

*1:南北朝時代南朝方として活躍した武将。楠木正成の息子。

*2:おかげで光久からは辟易とされています

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その④

熊本の地味な名お殿様の大奮闘話。①では戦国時代のジャイアニズム感②では家督相続のめんどくさ感③では戦国武将の父に悩まされる話を書きました。

今回は新天地での奮闘を書きます。

halucy0423.hatenablog.com

1599年の閏3月4日未明。

主人公・細川忠利の父である細川忠興は、福島正則黒田長政池田輝政浅野幸長加藤嘉明らというキャラの濃い豊臣政権の中堅どころの武将ともに、大坂城下の加藤清正の元に武装して集まっていました。

豊臣政権の五奉行の一人、石田三成を襲撃するためです。

原因はかなり複雑ですが、一番は文禄・慶長の役において、石田のような後方支援をした官僚と、加藤清正細川忠興のような前線で戦闘した武将のあいだに、凄まじい確執ができたからだといいます。

ムカついたから殺っちまおうぜ、これぞ古式ゆかしい戦国の香りを感じます。

加藤清正と愉快な6人の武将たちは、大坂備前島にある石田の屋敷へと進撃を開始します。
ところが、文系だと言われがちの石田も、だてに戦国人をしていたわけではなく、自分が暗殺される事を察知しており、当時北関東の名門で大大名だった佐竹義宣の助けを得て、五大老の一人である宇喜多秀家の屋敷へと逃げていました。

佐竹義宣宇喜多秀家もほぼ同年代で二十代後半。あの濃すぎる7人を敵に回すなんてじゃっかん軽率げふげふ、若い熱気を感じます。

7人の愉快な武将たちは諦めず、石田三成とのサバイバル戦国型追いかけっこ(お察しください)を始めます。石田が伏見城に立て篭ってそれを囲んだりしました。伏見城でドッカンドッカン何をやっとるんだ貴様らは。

戦国時代はかようにめちゃくちゃな時代なのです。

この案件は、親徳川家康派の豊臣政権の奉行である大谷吉継*1が、危機感を覚えて調停を試み、それをうけて五大老徳川家康が仲裁をしたことで落着します。

豊臣秀吉死後から豊臣政権には相次いで激震が走りましたが、その嚆矢となったのが、この7人の有力中堅武将が徒党を組んで石田三成を襲撃したことでした。

さて、歴史に「もし」、とつけることはタブーとされています。

ですが、あえてもし、細川忠興がこのとき、三十数年後にタイムリープできたとすれば、石田三成のいる伏見城加藤清正を投げ込んで爆弾を仕掛け、大爆発させたかもしれません。

石田三成に嫁が殺されずに済んだ上、跡取り息子の忠利が、加藤清正加藤清正の息子のせいで過大なストレスを抱え、ぶっ倒れずにすんだだろうからです。

✿読んでる本✿

 原因:加藤清正vs小西行長in熊本 

さて、時は飛んで1634年。四十代の細川忠利は体調を崩していました。

きっかけは、主君・家光の命令で熊本に国替えになったことです。これは家光が秀忠の死後、その影響下から脱却して最初にやった仕事の一つであり、忠利が家光にいかに信用されていたかがわかります。病弱同士、気があったのかもしれません

現在では、熊本はくまモンが治める場所ですが、当時は加藤清正の息子の加藤忠広が治めていました。家光は彼を改易して、実績ある忠利をそこに据えたのです。

忠広は品行がよろしくなかったので改易されたとされていますが、本書では改易はその程度の問題ではなく、加藤家の治める熊本藩で、並みの藩主が介入できないほどの根本的に大きな問題が起きていたのではないか、としています。

忠利が熊本に降り立った時、熊本はかなり悲惨な状況でした。

やっぱり小倉の時と同じような歪み(木が取れない場所や魚の取れない場所に木の年貢や魚の年貢が課される、加藤家の家臣や代官たちが不正をしている、それによって大名家の収入がなくなる等)があちこちで頻発していたのです。

さらなる歪みの原因は……?

さらに熊本は、大きな問題を抱えていました。
1634年から遡ること三十数年前、ちょうど加藤清正と忠利の父親が石田三成を襲撃していた頃、熊本は二つの藩に分かれていました。加藤清正の治める熊本と、小西行長の治める宇土です。片方が加藤清正(概念)、片方が海軍に特化したキリシタン系領主と、領主としての性格も違うので、もちろん政治の仕組みも何もかも違ったでしょう。ですが、関ヶ原の戦い小西行長が斬首され、宇土加藤清正の治める熊本に併合されます。

性格の違う二つの国が併合したとき、そこに生まれるのは、格差のようです。

なので、宇土地域は旱魃が起きた際、すぐに貧乏となり、「宇土とその周辺が貧乏じゃねーか!!!!」「ちょっと加藤さん、ちゃんと格差是正してくださいよ!!!」と三十数年後、細川忠利は頭を抱えました。この人、ことごとく「原因:関ヶ原の戦い」的な現象に振り回される不憫な人です。
為政者の皆さんは子孫の世代の為政者の皆さんに迷惑をかけないためにも、早めに問題は解決すべきだと思います。

熊本における過重なストレスと激務で、もともと虚弱体質だった忠利は体調を崩してしまいました。下血まであったというので、相当内臓が壊れてしまっていたのでしょう。
忠利は病気がちの体を抱えつつ、なんとか藩政に立ち向かっていきます。 

立花くんに愚痴り、松井さんに煽られる忠利

さて、1615年に大坂の陣が終了し、空前絶後超絶怒涛の戦争のない世の中がやってきました。

忠利をはじめとする大名たちは領土経営に注力していきます。

どんな行動をする君主が「名君」になったのか?

忠利たちの活躍した寛永年間は、異常気象が頻発したとされています。九州の異常気象はかなり深刻なものであったようです。1636年、忠利は、熊本藩の近隣の藩である柳河藩藩主・立花忠茂(この時代、まだ忠茂の養父の立花宗茂が藩主をやっているはずですが、忠茂が柳河藩の実権を握っていたようです)に愚痴っています。

「春中雨が降り続いたから、百姓の負担が尋常じゃない」だの「家臣も困窮してる」だの「富裕層が困窮してるのだから下々の者はもっとひどいはず」だの。

こんな名君な愚痴があってたまるものだろうか。

藩主のくせにッ!年貢とか納めさせてるくせにっ!愚痴られた立花忠茂も似たり寄ったりのことを考えていたと思われます。

お、お、お前の父親たちは、相次ぐ戦争で!百姓とか普通に!苦しめてた!人種なのにッ!!!ドッカンドッカン城を燃やしたり味方を三方に分け敵を襲撃!!とか普通にやってた人種なのに!!

細川忠興立花宗茂って名将だけど!!!その分!殺ったってことだから!!!農民を!

戦争は人が唯一止めることのできる災害だということを考えると!めちゃくちゃ生きる災害だから!!!

たったの30年で、戦争に勝てる領主が優秀なのではなく、民を傷つけず、救済する領主が優秀だという価値観に変わっていました。

「名君」であることを求められる

それをさらに本書で鮮明に印象付けるのが、首席家老の松井興長に煽られていることです(忠利の異母姉の夫、つまり義兄に当たる人です)。

熊本に国替えになった直後の1633年、忠利は厄払いに使うお米(お金の代わりですね!)を放置していたようです。すると、松井さんから「このお米どうするんです?」とツッコミが入ります。

元の文が現代語に訳されてても難解なので意訳をします。

松井さん「てか殿、そのお米、子々孫々まで取り置けるものじゃないですし(笑)こういう場合、下々の者(マジで原文に「下々」って書いてある)は利殖に回したりするものですけど、殿は殿様ですからね〜。殿様的な御用に使って欲しいですよね(笑)女房衆の噂にもなってるし、どうするんです?(笑)」

もう少し元の文面は穏やかですが、めちゃくちゃ煽りまくっています。

忠利は大爆発します。

忠利「下々の者の利殖方法など私は知らん!殿様的な御用なら何に用いてもいいお米なんだから、飢えた農民の救済に使う!それでいいだろ!?」

下々の者の利殖方法など私は知らん、と言い切っているあたり、凄まじいお坊ちゃま感が漂うキレ文ですが……。

結構筆致も荒々しいようで、忠利はこの時、煽られて激昂していたようです。女性たちの噂になっていると聞くと、いかに病弱な忠利と言えどもちょっと殿様の名君っぽいカッコいいところを見せたかったのでしょう(違うと思う)。

松井さんの目的は忠利自ら「飢えた民を救う」と言わせることにあります。そして忠利はその通りの言葉を返しています。

つまり、首席家老の松井興長も、その主君である細川忠利も「民を虐げる」ことは決してしてはならないことで、「飢えた民を救う」ことこそ、主君のしなければならない仕事であると共通で認識していることになります。

やはり、民を虐げていた戦争がポンポンと起こった30年少し前とはまるっきり違うのです。

「私」を消していく作業

③で、個性豊かな細川忠興がどれだけ災害だったか(本書では忠興=災害警戒レベル4〜5、忠興が動いた時には何らかの災害が発生している場合が多く早急に避難がもとめられます、という認識の模様)を書きました。

でも、こんな個性豊かな藩主がいたらちょっと幕府や周囲に不満がたまると爆発し、戦国の世に逆戻りしてしまうでしょう。

腐った料理を出したと上司に殴られたせいで謀反を決意するような祖父の明智光秀のような話や、仕事で来ている庭師の首を、妻の姿をみたからとはねる父・細川忠興のような話はどう考えてもこれからの平和な世の中にあっちゃいけない話なのです。腐った料理でも許される、というか怒られても軽率に天下を二分しない、「主の個人的な感情でアレなことにならない国・日本」を目指さなくてはいけません。おニューな価値観を投入せねばなりません。

ちなみに忠興は、忠利の晩年も健在で、熊本藩を二分しかねないことをしています。

江戸時代にあっては奔放すぎるほど自由奔放な父の後ろ姿を見ていた忠利は、考えたようなのです。

平たく言えば、政治に私情を入れるのはやめることにしました。

忠利は高度にシステマティックな人事評価制度を作り、しかも藩主である自分がそのなかに組み込まれて私情のない支配に取り組み始めました。
現代では当たり前の話になっていますが、主従の関係性を重んじた当時としては、こういった忠利(世代の藩主たち)の思想はかなり斬新であったようです。


次回でおしまいです。
細川忠利、島原に駆り出され、ラスボスとの最終決戦に挑みます!

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*1:豊臣政権下のエリート奉行であるにも関わらず、徳川家康に非常に近く、なおかつ西軍という、関ヶ原の戦いの結果を知っている後世の人を混乱させる来歴の持ち主

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その③

今回も今回とて熊本の名君(の可能性が高い殿様)の話です。小倉で修行を始めます。

 

✿読んでる本✿

 

① で戦国時代はジャイアニズムしか通用しないこと②で、細川忠利は、江戸時代への転換に対応できなかった兄たちを踏み越えて細川家当主になったことまで読みました。

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さて、忠利は家督相続を行い、まずは小倉藩主となります。
京都宮津出身の人が、北九州の小倉藩主になり、その後熊本藩主になるんですから、江戸時代の人事異動も大概だなと思います。

小倉城のホームページには細川忠利のことがあんまり触れられていません(T . T)が、このページで述べられている、忠興の、商業を保護し、外国と貿易することによって藩を富ませていく藩経営モデルは、忠利の時代には立ち行かなくなっていました。

幕府の鎖国政策が進んでいて、気軽に貿易ができなくなったからです。

父親を真似ることのできない忠利は、藩主として、かなり変革を求められるようになります。

本書では、「あれもこれも!!!忠利が苦労するのはほとんど父親の忠興のせい!!!!!」という姿勢を貫いています。潔いです。

父上、なんでこんな小倉の統治がゆるゆるなの……?

1621年に小倉藩藩主となった細川忠利ですが、しょっぱなから問題にぶつかります。

統治がゆるゆる〜〜〜〜!!!

新藩主に対する社交辞令の一面もあるでしょうが、配下の奉行たちが「忠興様に上申したくともできなかったことを、忠利様に申し上げます——」と頭を下げてきたのです。

そこで判明したのが、小倉の統治がかなり弛緩しているという事実でした。

①地域の実態にそぐわない各種課税がなされている(漁をしない村に魚年貢を課す、すでに放棄されている耕地に年貢を課すなど)
②いくつかの施策のせいで百姓が経営危機に瀕し困窮している(これは当時ではかなりの悪政と考えられていました)
③手永(後述します)のトップ(惣庄屋)の人事がおかしい(総庄屋が死去しても後任が据えられない、子供が継承しても給料が払われていない等)
④細川家の直轄地と家臣が治めている地域の年貢をはじめとする諸々の負担が違う(家臣が治めている地の方が重い)、

などと言った申し入れが次々と忠利の元へ舞い込んできます。

忠興……老いたな(老いたな父上と同じノリで)

戦国の行政に詳しくないのでわかりませんが、これは、本書で示唆されていたように、パパ上本人の資質の問題というより、戦国から江戸初期の大転換の中で生まれた歪みなのかなあと思います。

まあともかく、小倉の統治がゆるゆるで、忠利がびっくりしてしまったのは間違いないようです。そして、ゆるゆるな施策のせいで、小倉はかなり疲弊していました。

忠利のしなければならないことは、内政を充実させ小倉を回復させることになりました。

と、とりあえず解決してみるよ!!と奮闘する忠利

彼は家臣たちの申し入れを裁可し、目安箱を設置*1し、藩主就任から少し時間は開きましたが、領地を自ら見回るなど統治の引き締めを図っていきます。

なかでも、彼が「戦国生まれではあるが戦国武将ではない」と印象付けられる統治姿勢があります。

百姓たちに対してその地を治める家臣たちが実力行使を行うことを徹底的に避けるように、百姓とそこを治める家臣の係争があれば上に持っていき裁可を仰ぐよう命じていることです。

気に入らなければ燃やせ!そして殺せ!犯し尽くせ!!の世の中ではないし、藩主もそれを望んでいないのです。
(でも忠利、「村がつぶれようとなんだろうと何が何でも年貢は出せ」とも言っていて、その点は「THE✧*。◝(*’▿’*)◜✧*。藩主」なのですがね)

また、小倉藩(細川家)は、手永制という、いくつかの「手永」という区域に領内を分割し、藩主がさほど地域にうるさくしつこく介入しない代わりに、それぞれの手永で行政・財政、教育、軍事などを行うという独特の制度を使っていました。

いわば「民である君たちが、基本なんとかしてくれたまえ。トップの僕は困ったことがあれば手を貸そう✧*。◝(*’▿’*)◜✧*。」という丸投げ制度げふげふ、民と地域の自主性を尊重し、彼らを行政の主役に押し上げた制度です。

監督はきちんと行いますし、不正をした手永のトップ(惣庄屋)には厳しい制裁(=成敗)が待っています。忠利もちゃんと不正をした手永のトップ(惣庄屋)を成敗しています。

忠利は、奉行をはじめとした家臣の皆様の助けを借りて、なんとか治世の滑り出しを良好な形で終えたようで……

おえたようで………

終えたよ……う……うわーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!

ただとし の まえ に ちちうえ が らんにゅう した ようだ !!

 

父上、差し上げた領地で好き勝手したり、小倉の統治に口を挟むのはやめてください。

主君と臣下は似る、と言いますが。

細川忠利の主君・三代将軍徳川家光は、「私は祖父や父とは違う。生まれながらの将軍だ!」と就任時、大見得を切ったにも関わらず、治世の初期はパッとしませんでした。父の徳川秀忠が大御所として存命で、事あるごとに政治に介入してきたからです。

この本に秀忠vs家光親子大決戦が書かれているのでご参照を。

寛永時代 (日本歴史叢書)

寛永時代 (日本歴史叢書)

 

で、忠利も同じようなことに苦しんでいました。

魔境・中津

当時、忠利に藩主の座を譲った忠興は、小倉藩中津城に隠居していて、隠然たる権力を持ち続けていました。

正直、中津城の周りだけ、小倉藩が容易に介入できない地帯でした。
結構これは痛手なのです。

忠利たち小倉藩の人間は、忠興のいる中津にどれほどの人間がいて、どれほどの収入歳出があるのか、正確に把握できないほどでした。小倉藩のなかにありながら、裁判権統治権も忠興が握り、小倉藩の手の外にある地域でした。これでは小倉藩のなかに不平等が生じてしまいます。

また、隠居した前当主にあてがわれた土地なので、江戸幕府に対しなんら義務を負いませんでした。わざわざ忠興は忠利に、小倉藩が背負った江戸幕府から与えられた業務に中津は協力しないということを書状で書き送っています。

まさに魔境。

たぶん穏やかな忠利は、「……はい」でこの案件については済ませています。

済ませてはいけませんが、母の死後、シングルファザー*2として育ててくれた義理があります。
……それに、歩く大量破壊兵器だし。だまし討ちの末皆殺しとかする人だし。

忠利は、不満タラタラの家臣たちに対して「忠興様の考える通りにせよ」「中津には手を出すな」をそんなに連呼しなくてもいいのではないかと思いましたが、忠興が猛獣だから仕方ない。中津に容易に触れてはいけないのです。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

気に入らない奉行がいるのでやめさせておいた!

忠興は、忠利の小倉での人事に横やりを入れるようになります。

忠興「忠利ー、我が愛する息子よ!気に入らない奉行がいるのでやめさせておいた˚₊*(* ॑꒳ ॑*)*₊˚」
忠利「ゔぁぁぁぁ(人事を勝手に変えたのは貴様か)ーーーー!!!」
忠興「だって彼、私と仲悪いだろう?統治に差し障りがあると思って」
忠利「ゔぁぁぁぁぁぁぁあ(有能な奴だったのに)ーーーーー!!!」

諸君、忠興の思考こそが戦国時代の武将の考え方です。主君との人間関係を重んじる、それがSENGOKUのSAMURAI

しかし、この人間関係を重んじる姿勢、江戸初期・忠利の時代になると災害でしかありません。藩主との人間関係が悪くとも、優秀な人材を採用したい、という一人ひとりの能力にフェアーな姿勢を見せる必要があったからです。
家臣との関係が良いに越したことはありませんが、人間関係を重んじたところで、戦の場で忠臣に体を張って助けてもらうなんて場面もない、平和な時代の藩主に利益がないのです。
それよりも算術が出来たり学識に通じていたり、対外調整が上手にできる人物のほうが藩にとって利益になるのです。

ですが、忠興にしては当然のことをしたと思っている(=自分と仲の悪い人間を仕えさせておくのは忠利のためにならないと判断した)ので手に負えません。

以後、忠利は忠興と臣下の人的関係について神経質になっていきます。
忠利は「忠興と仲の悪い家臣を全員リストアップしろ」「どうして仲が悪くなったのか経緯を私に報告しろ」と家臣に命じています。
忠興と仲の悪い家臣は、忠利に叱られて、そのあと忠興のいる中津とは遠方に左遷されている人もいます。
いや、左遷というよりも、忠興から遠ざけたとみるべきでしょう。
叱り、中津から遠ざけたという体裁にしておけば、忠興に顔が立ちます。忠利が憎まれ役になって、父から有能な家臣を守ったと読むべきなんでしょう。

気苦労が絶えない。濃い父親を持った息子の。

少し話は変わりますが、前任者からの書類の引き継ぎって今の職場ではかなり重要なことですが、忠興と忠利の間にはありませんでした。
それだけでも忠利の苦労がわかる気がします。

理由はいろいろあるようですが、忠興からすれば「引き継ぐという発想はなかった」というのがいちばんのようです。
戦国時代は書類の引き継ぎ文化というのは、あまりなかったそうなのです。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

さすがに忠利の堪忍袋の尾が切れる

息子がこれだけ気を使っているのに、忠興は頻繁に小倉藩に介入してきます。

自分(中津)のことは介入を許さないのに、忠利(小倉)のことには頻繁に口を出す、まるで父親のような感じです。

あ、父親だ

さすがに、忠利は父親には怒れないので、父の中津の家臣にマジでキレた書状を送っています。父が介入してくるため、藩政でごたついていたときのことです。

マジで迷惑!!!父上の望みを全部叶えられるわけじゃないんだよ!こっちはすんげえ我慢してんの!!!ほんと我慢してんの!!!ほんといい加減にして!(意訳)」

と。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

息子からキレられてもあんまり反省しなかったらしい。熊本藩でもおなじことやらかしました。

ニューエイジのニューリーダー

いままでとは話は変わりますが、忠利は、忠興からもらった大事な茶道具を幕閣の酒井忠勝に売りました。

当時、異常気象により、小倉をかなりの飢饉(寛永の大飢饉)が襲っていたせいで、そのためのお金が必要だったからです。

忠利が活躍した寛永時代は、蝦夷駒ヶ岳の火山噴火、大雨、洪水・干ばつ・虫害などが発生する、まさに全国的な異常気象の時代でした。この寛永の大飢饉のせいで、江戸幕府は施政方針を変え、より秩序化された制度を重要視する文治政治に移行していきます。また、百姓をより大切にしていく路線へと転換していくのです。

忠興が重要視した、茶道による大名や上流階級同士の人付き合いより、百姓の暮らしのほうを迷わず選んだ忠利は、忠興とは明らかに異なる、ニューエイジのニューリーダーだったといえるでしょう。

 

さて、単にトップに座るものとしての価値観が異なるだけで、忠利と忠興との個人的な関係はかなり良好でした。

この親子は、そんなに喋ることがあるのか、恋人同士のLINEかよ(親子なんですけど)と言わんばかりに頻繁に連絡を取っていて、非常にくだらないことから政治情勢までぺちゃくちゃしゃべっています。
じつはそれが、江戸初期の、かなり重要な歴史的資料になっています。


ってなわけで!小倉で実績を積んだ忠利、家光様に見込まれて熊本へ移ります、というところで④へ!

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*1:吉宗の前にも実はあったのです

*2:ガラシャの死後、忠利の母代わりになりそうな、つまり正室を迎えていません。まだ彼女を亡くした時、30代だったし、複雑な情勢下の中で徳川ゆかりの女性を正室にもらっても良さそうですけど。……それだけガラシャが大好きだったと言うことにしておきましょう(短絡的)!あ、でも側室はいます!

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その②

熊本・九州の皆様のご無事と復興を祈念しております。

熊本の名君の話ですので、よろしければ、心が辛い時にでも読ん……でも、もっと私の文章が下手すぎて疲れるな。やめておきましょう

 

✿読んでる本✿

 

 ①で、戦国時代がどれほどジャイアン理論しか通用しない、弱きを挫き、強気を助く世界だったか、本書の主人公・細川忠利のご家族を例に述べてきました。

halucy0423.hatenablog.com

 

さて、この記事では、

素手で牛を投げ飛ばす腕力がなくても生き延びることができる、
夫婦喧嘩で庭師の首は飛ばない、
平和な国・日本

を目指す(仮)までの忠利の動向を読んでいきます。

忠利が細川家当主になった話は、かなり経緯が複雑で、情報が錯綜しています。本書はそれをまとめておられるようです。

 もともと当主になる立場にはなくてぇ……

 江戸の徳川家に人質へ赴くまでの、幼少期の細川忠利がどう生きていたか、細かくはわかっていないようです。

あまりに病弱だったことから、敬虔なキリシタンだった母の珠(ガラシャ)がキリスト教の洗礼を受けさせたという話もありますが、本書には掲載されていませんでした。とはいえ、父の忠興も妻の勝手な改宗にマジギレしたりしましたが、総じてキリスト教に関係深く*1、母は熱心なキリシタンですから、キリスト教にかなり近い環境で育っていたかもしれません。(そんな忠利が島原の乱で功績をあげるのですから、皮肉ですね)

細川家の公式史書「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」によると、彼は8歳から12歳の時まで、京都の愛宕権現の社僧*2の元へ弟子入りして、勉学に励んでいたとしています。

壮健な兄二人のいる大名の三男坊ですから、後継としての重圧もなかったでしょう。

そもそも病弱なので、成人できれば万歳だ、と父母は思っていたかもしれません。

細川家の家族関係(?)が1600年以前の状態のままであったら、しばらく勉学に励んで、他の子供のできない重臣の家に養子へ行くとか、分家を創設するとか、そういう未来が待っていたでしょう。

実際のところ、三歳年上の次兄の興秋(のちに細川家の跡目を巡って忠利と対立することになるのですが)は、忠興の弟、つまり叔父の養子になっています。

しかし、忠利の人生を大きく変えたのは、関ヶ原の戦いでした。
いや、正確には長兄の細川忠隆の政治的決断力の低さでした

「優等生」の長兄・忠隆

忠利は、たった十四歳だというのに、どうしてわざわざ箱根という天下の険を越えて、江戸まで赴いて人質になったのでしょう。

それは、「忠隆がやらかしたからだ」と本書はしています。

細川忠隆は六歳年上の忠利の同母兄であり、文武に優れた優等生として、将来を嘱望されていました。自他共に認める細川家の後継で、父と常に行動を共にし、ご当主修行に励んでいたと思われます。まさに不足のない次期当主を細川家は手に入れたはずでした。

しかし、彼は思わぬところで失態を見せます。 

徳川家康暗殺計画」の余波により……?

関ヶ原の戦いで東軍の中心として活躍した細川家ですが、べつに最初っから家康に近くて、バリバリ家康派というわけではありませんでした。
バリバリ家康派なら、人質を出す必要がないです(ぼそっ)。

たんに、保身に保身を重ねた結果、なんでか東軍の中心になっていたのです。
忠興も「え?なんで、俺、なんで徳川とかいう縁戚関係もあまりない家のために頑張んなきゃいけないの?こんなに死ぬ気で??」と超びっくりしてたと思います。

細川家が保身を重ねなければならなくなった原因、それは「徳川家康暗殺計画」です。
字面からして、怪しげな小説の怪しげな計画としか思えませんが、これは「徳川家康(が)暗殺(されそうになった)計画」という計画ではなく、「徳川家康(を)暗殺(する)計画(が発覚したんだけど、犯人は誰だ!!)」というものです。

首謀者として挙げられたのは、前田利長という加賀の大名です。

1599年4月、金沢・加賀の大大名にして五大老の一人、前田利家が死去しました。その後を息子の利長(当時三十七歳)が継ぎます。

利長は、豊臣秀吉が死んでから後、重臣たちの内部抗争が激しくなり、非常に不穏な政情になってきた中で、権力を伸長していく家康に危機感を抱きました。

「だから殺っちまえ」、と利長が考えたかどうか定かではありません。それは死んでいる利長に聞かなければ。

ですが、早くも1599年9月に「徳川家康暗殺計画」の首謀者として彼の名があがるようになります。家康は加賀へ出兵すると言い出しますが、利長は実母を人質として差し出し、事態は落着します。
利長は上手であったのか、そんな事件を起こしたにも関わらず加賀を堅持し、加賀百万石の大名となっています……が。

密かなる危機に陥っていたのが細川家です。

こんなかんじで

細川家・前田家超略系図

 利長は、千利休の弟子で、同じく利休の愛弟子であった細川忠興と非常に近しい間柄でした。でもって、利長の、かなり年の離れた同母妹が、忠興の息子である忠隆に嫁いでいます。

どう考えても利長と共謀している立場にしかみえない細川忠興(と細川家)。
これで家康暗殺計画のことを知らない方がおかしいです。

ちなみに忠興の特技は情報収集。となれば、「知ってただろう」と考えるのが普通です。徳川家康はそう考えました。だから細川家に圧力をかけ、忠興はひたすら身の潔白を証明しつづけ、関ヶ原の戦いで中央切って死闘する羽目になります。

で、三男である細川忠利を江戸に差し出します。

弟を危機に晒し続ける兄

細川忠隆の話にもどります。
父が嫌疑をかけられ、弟まで人質に出されたとき、取るべき道は、離婚して前田家と縁を切ったように見せかけることです。

実はこの発想、たいして難しいわけではありません。前例が身近にあるのです。

まさに忠利と忠隆の父母——忠興と珠こそ、似たような目にあっていました。

本能寺の変の後、妻の珠が明智家の人間なので、明智側につくと疑われた忠興は、珠を離縁して、自分と隔離しています。ほとぼりが冷めたころに復縁を願い出て、また再婚しています。
その間、彼女の元にこっそり通ってできた子が興秋おpklんjふgcrsd

同じように、千世を一旦離縁して、ほとぼりの冷めたころ、再縁すればよかっただけです。解答がそこにある問題です。

なのに、忠隆は何もしませんでした。

不足のない次期当主は、一瞬にして弟の命を無駄に危機に晒す兄になってしまったのです。
前田利長が、なんとか暗殺計画の嫌疑を晴らすことができたからよかったものの、そうでなく、状況が深刻化したら、弟・忠利の命はなかったことでしょう。

当時、現代とは異なり、結婚も政治であったことを考えると、忠隆の振る舞いというのは非常に悪手です。

忠隆はどうしてしまったのか、と忠興のみならず、周囲の人間は不審がったでしょう。

母の死に際しての振る舞いで、父、決断す。

さらに、細川家に激震が走ります。

1600年8月、忠興の正室である秀琳院(珠、細川ガラシャ)が石田三成の軍に襲われ、落命しました。忠隆の妻、千世はその前に籠に乗って前田家へ逃亡しています。

家康暗殺計画を含めた今回の政治情勢に一切関わりのない秀琳院(珠)のみが壮絶に死に、渦中にあるにも関わらず、忠隆の正室の千世は、姉の豪姫から派遣された籠に乗って実家に帰って生き延びました。

さすが千世は百万石のお姫様。優雅なことです

忠興からすれば、かなり、相当釈然としない感情が残ったのでしょう。
「お前が諸悪の根源だろ?」「何にも今の政治事情に関係ない俺の嫁があんなかたちで死んだってのに、何でお前がのびのびと輿に乗ってんの?」と怒り、「ていうかお前本当に忠隆の嫁にふさわしいのか?」「お嬢さん(悪い意味で)の嫁を迎えてしまったか……?」と悩んだかも。

正直にいえば、この案件、「ガラシャ好きが高じて息子の妻に『どうして生き残ったんだ!死ね!そして忠隆と離縁しろ!!』っていう忠興、ほんとヤンデレ」と私は思っていました。

ですが、こういう背景事情があると知ると、忠興が怒る理由は正当なものだし、感情としてごく自然なものだとわかります。

言い換えれば、弟を危機に晒し続けることを全く反省もせず、母の死に軽率な行動しかとらないおバカ妻を野放しにしておく男に成り下がってしまったのです。

忠隆は、関ヶ原後、忠興が宮津から豊後の小倉に転封になると同時に廃嫡されました。

よく、「千世が生き延びたから、愛妻の珠を失った忠興が嫉妬に狂って忠隆を廃嫡した」とシェイクスピアの悲劇のようにいわれますが、本書では忠隆は「政治的決断ができないタイプであったから」廃嫡されたと解釈されており、そちらの方が理にかなっています。

また、突発的な廃嫡決定ではなく、1600年12月ごろに廃嫡されたと考えられており、1599年に問題が起きてから一年も猶予があるので、忠興がかなり悩んで廃嫡したのがわかります。

本書では、忠興が忠利に書き送った「何事も慎しみが肝要だ、悪評が立ってしまえば取り返しがつかない」ということばは、忠隆を念頭に置いて書いているとされています。

つまり、忠隆はかなりの悪評に晒されていたのかもしれません。お家の危機に何もしないお方であると同時に、秀琳院の死にさいしての千世の軽率な行動に、細川家家臣も、世間の人々も、かなり頭にきていたのでしょう。

それは廃嫡せざるを得ない。

前田側も同じ思考をしていたのか、関ヶ原後、助けを求めてきた千世と忠隆を庇護しませんでした。

千世の兄の前田利長からすれば、彼もかなり危機的状況を乗り越えている最中なのに、細川家どころか「前田家の姫様は軽率で……」と評判の立ちかねない妹とその夫の行動に対する凄まじい失望感と怒りを抱いたものではないかと。
何の面下げて助けを求めにきた、と。

次兄・興秋という人

忠隆はそんなわけで、本人も非があったので廃嫡されたといってさしつかえありません。この問題は撤収!撤収!

細川興秋という忠利の次兄こそ、理不尽な人生といわざるをえません。

忠興、倒れる

実は、忠興は忠隆の廃嫡後、明確に後継者を決めていたわけではありませんでした。お嫁様の死のショックが強すぎて政治にやる気をなくし……、というより、今後の情勢を冷静に観察していたのだと思われます。

もし、このまま情勢が徳川優位に傾くようであれば、徳川と関係の深い忠利を後継にしない手はないからです。しかし、興秋は年長で、政治の表舞台に出はじめており、忠興や忠隆と行動を共にしていたせいで、参戦経験もあります。どこも治めていない忠利とは違い、中津城の城主でもあります。

そして、考え続け、考え続け、忠興は……
倒れました

1604年5月のことです。生死の淵を彷徨うほどの重病になりました。お嫁様のところへいきたくなったのかもしれません
後継廃嫡、正室腹の次男と三男、なかなか決まらない後継者、当主の病となれば、起きるのは一つ!!!

お家騒動じゃ!!!わーーーーーい!

同母兄弟が起こすお家騒動は、保元の乱にしろ、観応の擾乱にしろ、徳川家光と徳川忠長の争いにしろ、クソ泥沼になると決まってる!!!

 伊右衛門おくりびとなんてできない

しかし、残念なことに()、細川家はお家騒動を顕在化させることはありませんでした。

興秋派家臣と忠利派家臣との間で家中が非常にもめたことでしょうが、それは表面に出てくるようなものではありませんでした。興秋と忠利も内心は非常にドロドロした感情を抱いていたかもしれませんが、それを表に出すことはなかったようです。
とはいえ、時代劇や大河ドラマだったら、どうにも不利な忠利が兄の興秋に一服盛ってもおかしくはない状況です。ほら、お祖父ちゃん主人公の大河ドラマでやってたみたくさ、伊右衛門で……おくりびとを……

しかし、状況は大きく変わります。忠興が倒れ、危篤状態に陥った後、徳川家康が書状を出しました。

曰く、「忠興の意思により、忠利を後継者にする」と。

ほとんど死にかけている人からどう聴取したのか。たしかに家康の使者が危篤の忠興を見舞っていますが、そこで意思は確認できたのか、確認できたとしても、果たして忠興本人の正しい意思だったのか。しかも、家康の使者と忠利は同行しているのです。ねえ、それってさあ……。
忠利と徳川家康が共謀したのかなぁ……と時代劇厨の私は下種の勘繰りをしてしまったりします。

うん!!!そこを突っ込んではいけないですね!はい!

興秋は忠利の代わりに江戸へ人質に行くことになりました(この辺めちゃくちゃ……時代劇だったら忠利が一枚噛んでそうな芳醇な薫りがするぞ)。しかし、江戸へ赴く途中で出奔しました。

体調が奇跡的に回復した忠興は、興秋派の重臣をことごとく粛清しています。

細川家に伝わる名刀・歌仙兼定の持つ逸話に、「肥後熊本藩主であった細川忠利の施政がはかどらないのは側近たちが不忠であるからとして、隠居していた忠利の父である細川忠興が36人をこの刀で手打ちした(※ウィキペディアより)」という真偽不明の話がありますが、ここら辺の事情から生まれたのかもしれません。

そんなわけで忠利は祝!後継者になりました。

  

そんな中で③へ続きます。

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後継者に決まった忠利に、最強にして最悪の敵が現れます。
それが、何を隠そう、なかなか隠居しないうえもう一回生死をさまよう病気をしてやっと隠居した父・忠興。
こいつが!忠利の!!!政治を!!邪魔しに邪魔しまくる!!!元凶!!!
忠興本人は忠利を可愛がるので、余計に面倒です。

 

*1:妻どころか母もキリシタンで、なおかつ蒲生氏郷高山右近など、関係の深い大名もキリシタン大名です

*2:神社に付属して建てられた寺にいるお坊さん。権現とは、仏教の仏や菩薩が日本の神に仮の姿として現れること

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その①

1600年の新春。


一人の十四歳の武家の少年が、初めて江戸の地にやってきました。

当時の江戸は、徳川家康という大大名の一人が治める土地で、名君の元、少しずつ湿地帯を切り開いていました。富士山の見える、そして晴れが続くと砂埃が時たま舞うこの街が、噂通り、伏見や大坂、京を追い越す勢いの、華やかなりし都市であったことに、さぞかし少年はびっくりしたでしょう。江戸の町を従者と探検しながら、「ぼくの地元の天橋立かて、日本三景や、なんて言うたら、家康様に怒られてまうな……」などと、ぼそぼそつぶやいていたかもしれません。あ、そう。少年は天橋立が見える京都の宮津生まれ。

親元を離れ、しばらくは京都の愛宕権現のお坊さん(社坊)に学問を教わっていたようです。

少年は、正室の子供ですが、父母が目も当てられないほどラブラブなせいか、きょうだいが多く、兄が二人もいます。次兄は叔父の養子になり、その後を継ぐことが決まっているので、少年は将来、文武両道の長兄を支えるために、がんばらねばならないのです。

食べ物の好き嫌いが多くて病弱なのが、ちょっと不安要素ですけど……。でも、そんな体の弱い子が、わざわざ京都の北からこの江戸にやってきたのは、理由があります。
宮津城城主であるところの父が、昨今の複雑怪奇な政治事情に困り果て、三男であるところの少年に、江戸(徳川家)へ人質に行くように命じたのです。

少年のような人質は「証人」とも呼ばれ、丁重に遇されました。似たような立場の人間は少年の周りにいっぱいいて、中には長兄のお姑様・芳春院様までいらっしゃいました。

秀忠の周りに仕える小姓は、似たり寄ったりの年代のものが多く、友達もできました。父は心配性なので、仕事中(会津に出張をしているのです)も少年に「秀忠様のお側近くにいろ、でなければきちんと折々挨拶しろ」「何事も慎しみが肝要だ、悪評が立ってしまえば取り返しがつかない」と手紙を書き送ってきます。
少年は「わかってますて!父上はやかましいなぁ」と思ったかもしれませんが、素直に言うことに従っていました。
あんまりに忠勤ぶりが良いので、家康も、秀忠の出陣に参加せず、江戸にいて良いよと少年にいってくれました。

やったね少年!

 

しかし、江戸で暮らしていた少年は、その直後、故郷の宮津が戦火に巻き込まれ、

大坂の屋敷で母が自害し(正確には家臣に自分を殺害するよう命じ)、

祖父が敵の手に捕らえられ、

父が戦いの前線で死闘を繰り広げ、

自分が支えるはずだった長兄が失脚して廃嫡され、

自分が次期当主の座を次兄と争わなければならない未来が来るという、いいかえれば、

関ヶ原の戦い」で実家が崩壊していたという事実に、直面することになります。 

 

……で流れる麒麟がくるのOP 

 

細川忠利って誰(いきなり失礼)

この少年こと、細川忠利(ほそかわただとし)は、江戸初期に活躍した大名です。
熊本藩藩主となって、戦国時代から江戸時代へと急激に変化していく時代で、国づくりを行い、日本の歴史上最大規模の一揆島原の乱の平定に尽力しました。
天草四郎の首を取ったのは彼(の配下)です。

 

祖父は今年の大河ドラマの主人公の明智光秀細川藤孝、父は細川忠興
戦国通なら一度は耳にしたことのあるお三方なのではないでしょうか。ちなみに母はキリシタンとして有名な細川ガラシャ明智珠)です。

戦国通の人にはわかっていただけるネタかもしれないですが、庭師の首が飛び、「あーたは鬼よ!!」「お前は蛇だ」と大げんかしたカップルの愛の結晶が細川忠利になります。

自分と妻が愛し合っているところを見た庭師の首をはね、その首を妻に投げつける、妻もその血がついた小袖を着続ける、忠利の父母のこの逸話は、現代の感覚からすると異常です。ホラー、怪奇現象、ということになるでしょう。

 

戦国時代、つまりそれは修羅(バーフバリ)の時代

しかし、冷静になって振り返れば、南北朝時代、父の仇をとった(と勘違いした)少年・楠木正行は、その首をボールのように投げて遊んで喜んだといいますし、戦国時代、それこそ織田信長は、敵将の首をドクロ杯にしたといいますし、刀の試し切りは基本人体で行われましたし、辻斬りなんぞは当たり前でした。病気を癒すために、武士が行き当たりばったりに1000人も人を殺す、1000人斬りというものも流行りました。

まさに現代であれば、強盗殺人や連続通り魔が推奨され、そして罰されることなく、そのような人間は上流階級として生きているということになりましょう。
それだけ野蛮、人権という概念皆無、まさに修羅の国でした。

それをふまえると、忠利の父母の逸話は、当時の夫婦喧嘩そのままなのでしょう。「無実の人間を殺したあんたは鬼よ!!」「それを顔色も変えずに見ていたお前は蛇だ」と言い合うだけ、憐れみの精神をおもちの優しい夫婦だったのかもしれない、とまで思ってしまいます。

忠利の祖父・明智光秀も、幾度も主君を変え、最後は主君に謀反を起こしています。

これも冷静になって振り返れば、当時の戦国人としてはごく普通の行動です。今年の大河で鮮烈な印象を残した斎藤道三も主君を何度も変え、なかには暗殺したという説もあるようですし、2016年大河でも草刈正雄さんの演技が光った真田昌幸は、主君を変えすぎてもう何が何やらさっぱりわかりません。
ただ光秀の謀反した相手が、超グレートアイドルの織田信長であったために、異様なほど話題になっているだけなのではないでしょうか(「本能寺の変 原因」でググるとちょっと面白い)。
信長は臣下に殺されなければいけないほど暴走していたし、光秀は信長を殺す相応の理由があって、黒幕がいた、とされることが多いようです。

 

光秀がなんども主君を変えているように、信長は死因となった光秀以外にも、若い頃から色々と裏切られたり、謀反を起こされたりして、その都度生き延びています。暴走するも何も、謀反されるのは当たり前なのが当時のトップに立つ人間だったのです。

で、もう一人の祖父・細川藤孝は、京都の路上で突っ込んできた暴れ牛を、素手で角を掴んで投げ飛ばしたり、人の家の門番の手を、素手で握りつぶしたことがあります。でもって、……とまあ、全ての逸話、脳みそが不協和音を起こすレベルの怪力です。戦国のアンドレ・ザ・ジャイアント、巨大なる人間山脈、それが細川藤孝。しかもそんなジャイアント細川は当代随一の教養人と呼ばれています。

教養人とは(スペースキャット

 

つまり、彼らを現代の常識で考えてはいけません。

 

言い換えれば、忠利の祖父・父母はバーフバリのノリで生きているのです。

それを踏まえると、「戦国の感覚」がわかるような気がします。で、これを頭に入れておくと、本書において、細川忠利とその主君の徳川家光江戸幕府が、どうして、天下泰平を希求したのかがわかります。

裏切りを繰り返して主君を殺害したり、素手で牛を投げ飛ばしたり、夫婦喧嘩で庭師の首が飛ぶぶっ飛びジャイアンライフは、江戸時代を形成していくにあたり、ちょっともう無理だったのです。

すなわち、素手で牛を投げ飛ばす腕力がなくても生き延びることができる、夫婦喧嘩で庭師の首は飛ばない、そんな平和な国・日本熊本藩藩主細川忠利と征夷大将軍徳川家光は目指していたのです。

たぶん。

 

ほとんど本編を読まないまま②へ進みます!

 

halucy0423.hatenablog.com

 

そうです、この本を読みます。