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日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑧

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読んでいる本〜!

さて、あけすけにいえば、玉子が東軍諸将のプロパガンダになったところまで書きました。

halucy0423.hatenablog.com

ここからは、玉子の死の宗教的問題について書いて、この記事を終わらせたいと思います。

玉子は小笠原少斎に自分の胸をつかせて死にました。

玉子に親切な歴史書は、この出来事を「自殺」とはあけすけに書かず、 「キリスト教徒であったため、小笠原少斎に自分の胸をつかせて死んだ」とただし書きがしてあります。

玉子の夫である細川忠興と息子である細川忠利を主眼に据えている「江戸城の宮廷政治」は、やっぱり妻であり母である人のことですから、おそらく、忠興と忠利、そして玉子の主観に沿って、

そのころ、大坂では石田三成が挙兵し、大坂城に近い玉造の細川邸には、三成方の軍勢が押し寄せ、忠興夫人の人質提出を迫った。そのとき細川邸の留守居小笠原少斎はすぐ奥に入って、かねてからの決意どおり、忠興の室玉(洗礼名ガラシャ、三十八歳)に最期のときを告げ、長刀で突き殺した。侍女のしもが、この様子を忠興に知らせることを命じられ、いやいや屋敷を出たころには、少斎らは自害し、屋敷には火がかけられていた。七月十七日夜のことである(『霜女覚書」)。

 と非常に丁寧に玉子の死を書き、家臣の小笠原少斎と玉子の、緊迫した悲壮な決意が滲み出る叙述となってます。

歴史的事実としては玉子は自殺したのでしょう。でも、彼女は、キリスト教の素晴らしい先人の一人です。それこそ、玉子が死んだ直後から。
当時のキリスト教の教えに従えば、自殺者は埋葬さえ許されないのですが、玉子はきちんとキリスト教式に葬儀をあげ、また一周忌までされています。

つまり、キリスト教側としては、玉子の死は自殺ではない、……と考えたことになります。

「玉子、一緒に死んでくれぇぇぇ!!」「ちょっと待って。神父さまに聞いてくるから」

そんな玉子ですが、1600年の行為は周囲に強制されて仕方なく死んだわけではなく、自殺について、長らく考えていた末の結論だったようです。

実は1596年に、細川忠興に「一緒に私と死んでくれ」と言われた時がありました。
おっと?細川忠興、おっと???常にヤンデレ疑惑がつきまとう上、このたび心中まで持ちかけてくるとは!?

あぁ〜〜!!一生懸命「細川忠興ヤンデレじゃないんじゃないんじゃないかな」「愛妻家だとは思うけどね」というニュアンスで語ってきたのにこの始末!もう!!!もう!!!

……ヤンデレだったのではなく。

さて、こっちの記事で、 「1595年から数年間は、この夫婦に残された僅かながらの穏やかな時であったかもしれません。」と述べました。

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が、「夫婦関係という点では。」と付け足しました。夫婦関係以外は全然穏やかじゃなかったのです。

 

1596年、細川家はお家の危機にひんしていました。ときの関白豊臣秀次切腹させられたのです。
細川忠興は秀次に近い立場だったので、その影響で、自裁を強制されそうな空気になっていました。
実際、同じく秀次に近かった利休七哲の一人、瀬田掃部は切腹しています。また、同じく秀次に近かった伊達政宗は、伊予に転封されそうになり、怪しい動きがあれば当時の嗣子であった伊達秀宗家督を譲るよう強要されています。

そのなかで、細川忠興切腹を選べば、自然と玉子も自害を選ぶことになります。

そのなか、「わたしキリスト教徒なんだけど、夫と死ぬことって有りですか?」と玉子はオルガンティーノ神父に意見を求めました。この時、オルガンティーノ神父は「ダメです」と返答しています。

夫の人生は夫のものです。玉子の人生は玉子のものです。細川忠興豊臣秀次と近い存在だったのは、忠興の責任であり、玉子の責任ではありません。夫の責任まで妻が背負う必要はないのです。

徳川家康がとりなしたことで、細川忠興の命は救われましたが、これをきっかけに、玉子は自分より家が大事な戦国時代の「世の習い」と、家より自分自身を大事にすべきと考えるキリスト教の教えについて、自分なりに昇華していく作業に入っていったと考えられます。

イエズス会の皆さま、苦悩する。

どうしてキリスト教では自殺が許されないのかというと、生命というものは神からの恵みであり、それを自らの意思で潰してしまうことは、神からの恵みをぞんざいに扱う=神と自分を大事にしない行為であり、最悪のことだ、と考えているからです。
自殺予防やメンタルヘルスケアーが元キリスト教圏である欧米で進んでいるのは、自分の命を大事にしよう、という思想が根底にあるからなんだと、考えたりします。……証拠はないですけどね。

実は、この自殺の問題。小西行長が「キリスト教信者なので」と切腹を拒絶したこと、明石全登が死を拒否し、行方不明になったことなどから、キリスト教は日本の状況も理解せず自殺を禁じたと思われがちですが……

日本に赴くにあたり、イエズス会の皆様も、適応しようとしていました。当時の日本人は、自分より家を大事にする習慣があったので、家のために自殺することもやむなしという風潮になっていました。それは玉子の例を見れば明らかに切実な問題だったことがわかります。
自殺の否定は当時の日本ではできませんが、自殺の肯定もキリスト教の教義上できません。

なんどとなく、イエズス会の皆さまは本部と協議を重ねていました。
そのなかで、ヴァリニャーノ神父は、日本の状況を鑑み、「死を回避できない状況になった場合の自殺は仕方がないのではないか」という考えを得るに至ります。
ですが、これはキリスト教イエズス会の公式見解に至らずに終わりました。キリスト教の、人間としてのあり方の根幹に関わる問題を容易に動かすことはできません。

キリスト教の考え方によれば、神はこの世を愛しています。人生は一度きりしかありません。神の作り、神の愛する世界を味わい、さらには神の与えた夫との人生を楽しむべきなのです。
けれど、日本はそうではなかった。仏教の影響で輪廻転生を信じていて、なおかつ東アジア圏の文化として、家の存続のためであれば、自分の命はすぐに差し出すべきものでした。そして、愛し合う夫婦は来世で必ず再会すると考えていました。

自分の命を大事にした上で自分のように他者を愛するのか、自分の命を捨て駒に他者を生かすのか。異文化邂逅・異文化理解の難しさがよく現れています。

玉子はこの異文化邂逅・異文化理解のはざまにいました。

余談ですが、彼女は、日本の上記のような価値観では、全てが空しいものに映り、キリスト教という異文化によって救われたのだから、メンタルヘルスのためにも、異文化を理解することは大事だなあと学んだりします(*^^*)

玉子の救済

ところが、1596年の秀次事件ではNOとされたことが、関ヶ原の戦いではOKとされました。

イエズス会の皆さま、適当すぎやしないかい

……実は違って、これにも理由がありました。

玉子が死ぬことによって、救われる命があるからです。

細川忠興と、江戸に人質へ行っていた細川忠利です*1
細川幽斎は……自力で……なんとかしちゃいましたけど

 本書によれば、玉子は、殉教願望を持っていました。ただ、それは生きることを諦めるとか、世を儚むとかではなく、自分の信仰を、自分の命によって体現したいと考えていたようです。それほど熱心なキリスト教信者だったということですね。

そんななか、彼女は関ヶ原の戦いで、自分の信仰を体現できる場所を見つけました。いや、夫と、細川家の窮地を、「細川家を救い」、「自分の信仰を体現できる場所にしよう」と、ポジディブに考え直したのかもしれません。

以前、離婚したいと玉子が考えていた時、「一つの十字架から逃れるものは、より大きい十字架を見出す」というジェルソンの書の一節が彼女を救ったことはここで書きました。言い換えれば、細川忠興との結婚生活が玉子にとっては十字架=自分の信仰のあかしであり、彼の窮地を救うために自らを犠牲にすることは、信仰のために死ぬことと同じ意味だった、と捉えられます。

こう解釈すると、玉子の死に様は、まさに、キリスト教で崇敬されているアッシジのフランチェスコの祈りを想起させるものとなります。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

死の危機に瀕する人を、自分の命を差し出してまで救う。まさにその姿は聖女です。
アウシュビッツの聖者」と呼ばれたコルベ神父は、強制収容所で餓死刑に選ばれた人の身代わりになって自ら餓死刑になりました。
小笠原少斎に胸を突かれる玉子の姿は、それと同じです。

玉子がしたことは、自殺ではなく、破滅の危機に瀕する細川忠興と、細川家の救済だったのでしょう。
表面的には自殺に見えても。
確かに、玉子の死をきっかけに、細川家は大きく状況を好転させます。今まで京都の北、宮津の城主だったのが、小倉藩の藩主になり、ついには玉子の息子の細川忠利の代になって熊本藩という大藩を手にするまでになりました。

救われたほうの細川忠興は、玉子の一周忌をキリスト教式で行なったとき、説教をきいて、号泣しています。

彼〔※説教者の修道士〕は説教の最後に、ガラシャの徳と善き死について述べたところ、越中殿〔忠興〕とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた。(本書より)

まとめじゃまとめじゃ!!

細川忠興と玉子の夫婦生活は決して平穏な生活とは言えず、謀反したり幽閉したり軟禁したり離婚騒動を起こしたりそれでもなんだか子供がいっぱい生まれていたり、最後はああいう死に方、と、なかなか大変な夫婦です。
その複雑な結婚生活のせいで、細川忠興も玉子も、人格的な中傷にあってしまうことが多い傾向にあるようです。忠興は神経質な側面が災いしてヤンデレ男と、玉子はキリスト教を信じ抜いた姿勢が災いしてカルトに走った情緒不安定女、と。

けれど、私は、ここまで本書を見てきて、「清らかな純愛だなあ〜〜〜」と思います。

玉子を、本能寺の変の際、自分の立場も顧みず、幽閉することで命を救った細川忠興。こんどは関ヶ原で、最も危機に瀕していた細川家と細川忠興を、自分の死をもって救った玉子。

そして、その二人に適応していき、玉子の自殺まがいの死をゆるしたオルガンティーノ神父。

三人の美しい感情が複雑に絡み合い、ステンドグラスの光のように様々な色合いを見せてくれるような関係であるな、と。

細川忠興は玉子の死後、キリスト教に親和的な態度をとり続けました。玉子の命日にはかならず盛大なミサを開いたと言います。ですが、キリスト教信者にならず長い一生を終えます。
政治的には正しい選択だったといえるでしょう。こののち、キリスト教は禁教とされ、彼の親友である高山右近はマニラまで逃れました。細川忠興自身も、禁教令に従い、愛妻の信仰していたキリスト教を迫害せざるを得なくなります。

細川忠興自身も、愛する妻を、彼女の信仰していたキリスト教式で供養することさえ、ままならない人生を送りました。
玉子は細川家の信仰していた禅宗の戒名では、秀琳院と称されています。

 

……が。

細川忠興は、宣教師に迫害を加える加藤清正(※日蓮宗徒)と口論になり、斬り合いになりかかったという話を聞いて、戦国武将すぎるので落ち着くべきだと思っています!!

 

電子書籍版はこっち。 

 

*1:個人的な妄想だけど、興秋と忠利が宣教師の皆さまに間違われるのはこのせいもあるんじゃないかなと思う。ガラシャの死により忠利は間接的に救われたんだけど、あれ、忠利キリシタンじゃなかったっけ……?って思考は宣教師の皆さま、しそうである。