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日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑦

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読んでる本

 

更新が滞っていました。私事で忙しかったのと、この記事を書くのに、相当迷っていたからです。

なんでか。

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I田M成さん

この人のことを書かなければいけないからです。

 

石D三Nのことを書くなんてクソ面倒な!!!!

細川ガラシャ細川忠興よりファンが多そうじゃん。困るんだよね〜

理性を失った狂気の沙汰

本書はちょっと古いので、石田三成細川ガラシャの死に主体的に関わったとしています。が、ついこの間知ったのですが、世の中的には「石田三成細川ガラシャの死に関わっていない」「東軍諸将の妻女を人質として召集しようと考えたのは前田玄以増田長盛長束正家の三奉行」という説が出てきているようです。

ではあっても、戦争とは正気をなくす所業なんだと感じますね!
どの戦争も、加古隆の「パリは燃えているか」をBGMにしなければいけない凄惨な事件はあるんだと。それを起こしまくっていてみんな感覚が麻痺している戦国時代とはクソな時代、ホッブスの言うところの「自然状態」に近い時代であり、死んでも戦国時代には行きたくない(※行けない。)と!!
玉子殺しが、島津家や立花宗茂細川忠興など、生きる暴力装置といって差し支えない存在によって行われたなら、これほど衝撃的ではなかったかもしれません。でも、石田三成、ないしは前田玄以増田長盛長束正家という、行政(行政とは政府の暴力抑制装置ですよね)(ですよね……?)に力を発揮した人たちが、人の妻を断りなく勝手に襲い死に至らしめました。

サバトじゃーーーーーー!!!ミッドサマーじゃーーー!!!狂気の沙汰じゃーっ!!
アリ・アスター監督が映画にしそうな題材じゃーーーッ!!!

政府の治安維持機関である京都所司代をしたこともある人々なのに。いや、石田三成、ないしは前田玄以増田長盛長束正家からすると、細川忠興をはじめとした東軍の人々の方が常識はずれだし約束破りだし野蛮だと考えていたでしょう。確実に。

どっちもどっちなのは確かですが、まさに理性を失った狂気の沙汰です。


現場を見ていた玉子の侍女「霜」が、玉子の死に際を、半世紀ほど経った頃に、回想しています。「霜女覚書」といいます。

 玉子の孫にあたる、熊本藩主細川光尚が、祖母に死に際のことを知りたいと願ったところ、当時の侍女の霜が存命していることが判明し、記させたものになります。
徳川家光徳川家綱時代の細川光尚世代になると、平和になってきていて、ようやく霜も事件の真相について、重たい口を開けたのかもしれません。なんとなくではありますが先の大戦時において、老齢になって心の整理がつき、体験談を語る人が出てくるのと似ているなあと感じました。

それによれば、最初、慶長五年七月十二日(1600年8月20日)頃、大坂方が大坂にいる大名の家族を人質に取るのではないかという噂が聞こえてきたといいます。

どうやら当時、その人の主君に対する忠誠の質を保証する証人的な存在としての人質もあったようで、厚遇されました。担保ってやつです。*1

ですが、石田・大坂方が強行した人質作戦は、細川忠利のような場合と違い、諸将にとっては相当好ましくないものだった、といえそうです。

大坂方は当初、下手に出て人質提出を求めていたけれど、細川家が「細川家から人質に出せる人間はいない」と返答していたそうです。玉子を絶対に人質には出さない構えのようです。次に、大坂方は細川家の縁戚*2である宇喜多秀家*3のところに移るよう依頼しています。細川家はこれも拒絶しています。一歩たりとも玉子を外に出すものかという、細川家の薄氷を踏む様子が伝わってきます。
これを機に、大坂方の対応が硬化・エスカレートし、軍を出します。

その結果、交戦状態となります。

昌斎〔少斎〕・石見・稲富の両人が談合して、稲富が表で敵を防ぎ、その隙に奥方様が最期を迎えられるよう話し合われましたので、稲富は表門に居ました。その日の夜の始め頃、敵が御門まで寄せてきました。稲富はその時、心変わりをいたし、敵と一緒になりました。その様子を昌斎が聞き、もはやこれまでと思い、長刀を持ち、奥方様の御座所へ参り、「今が御最期でございます」と申し上げました。内々に申し合わせた事でございますので、与一郎〔忠隆〕様の奥方様を呼んで一箇所で果てようということで、御部屋へ人を遣されましたが、〔奥方様は〕もはやどこかにお引きになられたのかいらっしゃいませんでしたので、御力なく果てられました。長刀で介錯しました。
(本書による)

玉子の長男、細川忠隆の妻・千世はこのとき、姉である豪姫(宇喜多秀家の妻)のところへ逃げ、そこから実家である前田家に帰っていました。本書でも触れられていますが、細川忠隆は妻のこの行動を許してしまっており、これが細川忠興には遺恨として残ります。 

前年から細川忠隆は千世関連で当主としての資質を疑われるような行動をしていて、忠興はこれを機に細川忠隆を廃嫡します。

本書によれば、千世は玉子が逃したのではないかと言われていますが、よくわかっていません。ただ、このような限界・極限状態において、「千世も玉子と一緒に死ぬべきだった」が正解のようです。

戦国時代ェ……

ガラシャが〕三斎〔忠興〕様と与一郎〔忠隆〕様への書置を作成され、私にお渡しになって仰られましたことには、をくと申す女房と私の両人で落ち延びて、書置を確かに届け、最期の様子を三斎様へ申し上げるのが御意とのことでございました。ですので、この最期をお見捨てして落ち延びることはできないと申し上げ、〔死出の旅に〕御供したいと申しましたが、二人は落ち延びなさい、そうでなければ、〔忠興や忠隆が〕この様子をお知りになる事ができませんから、ひらに〔頼みます〕と仰せられましたので、最期を見届け終えて罷り出でました。内記〔忠利〕様の御血筋の人には内記様への形見を遣されました。
(本書による)

江戸にいる細川忠利にも玉子が形見を渡していたと知り、母親としての一面を垣間見れてホクホクしておりますが、そんな場合ではないな。

恨みを抱くにふさわしい

この事件は、細川家のみならず、東軍の諸将に大きな衝撃を与えたようです。『細川家記』によれば、細川忠興をはじめ、細川家一同・東軍の諸将の皆が、「三成(=大坂方)を滅ぼして讐を報じる」と非常な恨みを抱きました。

どうして、細川家と何も関係がなさそうなNHK大河ドラマ真田丸』でも細川ガラシャの死を丁寧に描いたのか。ありとあらゆる大河ドラマ細川ガラシャの死が必ず描かれるのはなぜか。ここですよね。

たぶん細川ガラシャの死がない関ヶ原の戦いとは、サラエボ事件がないWW1、トンキン湾事件がないベトナム戦争血の日曜日事件のないロシア革命に匹敵する骨抜き感のある関ヶ原の戦いになるでしょう。
東軍の諸将にとって、これは細川家の問題なのではなく、自分たちの身近にある問題でした。というのも、東軍で活躍している黒田長政加藤清正正室はこの時、九死に一生を得ています。

加藤清正の妻は、策を講じて逃亡に成功した事例である。屋敷を包囲された後、屋敷から何度も水桶を運び出していた。そのうちに、彼女は大きな水桶を二重底にしたものに隠れて脱出することに成功した。黒田如水(官兵衛、洗礼名はドン・シメオン)、長政父子の場合は、病気の老臣を医者に診せに行くといって、乗り物に乗せて何度も屋敷を出入りするようにした。その乗り物に対する見張りの警戒心が緩んできたのを見計らって、老臣の後ろに妻女を隠し、寝巻を引き被って脱出に成功した。その際、乗り物の扉をあえて半開きにして、見張りを油断させたという。(本書より)

加藤清正黒田長政(その父の黒田如水)も、正室が無事と知るまで、気が気でなかったでしょう。
その他にも、水谷勝俊の子(水谷勝隆)は、乳母が機転を利かせて近衛前久の屋敷の風呂に匿ってもらったり、加藤嘉明の家は、細川家のように、玉砕覚悟で屋敷に大砲を備えさせたりしていました。


一歩間違えれば妻子が玉子と同じになっていた、それが東軍の諸将の実感だったかもしれません。

同担拒否過激派、アイドルの夫をかばう

さて、この悲劇を招いた最大の原因は大坂方の行動にありますが、内的要因として、細川忠興の命令があげられます。
細川忠興は、玉子と大坂屋敷に残していた家臣たちに、有事の際は自害するよう命じていました。

本書では、当時のイエズス会士のヴァレンンティン・カルヴァーリョ執筆の年報の記述から、

忠興による自害の命令は、名誉のためと考えられていたことと、それが日本の慣習であると記されている。(略)忠興の命令が奇異なことであるという認識は読み取れない。(本書より)

としています。
不思議なことに、いままでアイドル玉子ちゃんの夫・細川忠興のことを、残念な性格()の持ち主として活写してきた玉子ちゃん同担拒否過激派勢のイエズス会の皆さんですが、不思議なことに、カルヴァーリョはこのとき、「慣習で」とか「奇異なことではない」と忠興の行動の合理性を強調しています。
同担拒否過激派がアイドルの夫をかばう。天地が裂けても無いことがここにおきたのです。

なんでだろうか。
細川忠興の命令は、戦国期の日本にいれば、「その選択肢もある」という出来事だったんではないでしょうか。
加藤清正黒田長政正室は逃げたのに、どうして玉子は逃げなかったのか、と思われますが、お家の事情はそれぞれ違っています。

細川忠興にはリスク全回避傾向があるといいましたが、当時の状況というのはそんな神経質な忠興が発狂してもおかしくない、「細川家詰みゲー」状態でした。

正月に三男の忠利が徳川家へ人質に行き、夏に、細川忠興会津に出陣中の留守のすきを突き、細川幽斎と家臣五百名のいる田辺城に、15,000もの西軍が迫っていました(玉子が死んだのはこの時期です)。また、この時期、家中にも問題が生じており、「徳川家康暗殺計画」の余波で、首謀者とされた前田利長を義兄にする、嫡男の細川忠隆の地位も危ぶまれています。

細川忠興は、ほぼ同時期、忠利に、なるべく「秀忠様のお供をし、出陣せよ。もしお供が許されなければ、夜をこめ二里も三里もついて行って、秀忠様が休息するたびに陣を見舞うようにでもせよ」と、細やかすぎる気遣いを徳川秀忠にするよう命じています。(江戸城の宮廷政治 (講談社学術文庫)

十四歳だか十五歳の少年(しかも病弱)に秀忠のストーカー秀忠の追っかけまでさせなければいけないのです。

また、加藤清正黒田長政正室は大名の娘で徳川家康の養女だから離れ業ができたのかもしれません。
様々な話を聞くに、大砲を屋敷に備えていた加藤嘉明正室は加藤家の重臣の娘で、玉子は明智光秀の娘であり、双方とも、外に出て行くと誰も身寄りがありません。
加藤清正は領国にいたので、妻が逃げてきても無事キャッチすることが可能でした。

そんななか、人質になるよう細川家と玉子に迫った大坂方は、本書の言葉を借りれば、

わざわざ地雷を踏みに行ってしまったとしかいいようがない。

です。
パリは燃えているかをBGMに流しつつ)


死の直後、玉子を娘のように常に心配していたオルガンティーノ神父は、焼け跡からその遺骨を拾い集めます(正確には当時キリスト教は扱いがグレーゾーンであり、神父が外に行くわけにはいかなかったので、信徒が拾い集めました)。
その遺骨をもって、キリスト教式の葬儀が挙行されました。細川忠興が参列してのことだったといいます。
でもって面白いんですけど、お墓は細川家ゆかりの禅寺・崇禅寺にあります。

 

さて、自殺の是非について次はメモしていきます。

 

*1:細川忠興と玉子の第四子である細川忠利は、当時、前田利長による「徳川家康暗殺計画」の余波で、徳川家康のもとに人質として赴いていました。
細川忠利はたぶんそういう意味合いでの人質であり、細川忠興徳川家康に背くと忠利は死ぬ予定ではありますが、それなりに自由に動けていたようで、出陣する秀忠の元に参じたり、江戸で友達を作っていたりします。

*2:玉子の長男・細川忠隆と相婿

*3:西軍の主力大名ですね