Don't mistake sugar for salt.

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑥

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*挙動が少しおかしかったのでブログのデザインを変更しました*

前の記事↓

halucy0423.hatenablog.com

 

どんどん終盤に近づいています……前の記事ではキリスト教徒になった玉子が離婚を望み、「どうしたら細川忠興と離婚できたのか」ということをメモしていきました。

正直に申し上げると、ここまで本書を読みながら、細川忠興と玉子の周りを調べてきて。

愛じゃ、ハリー。愛じゃ。

という感想を抱いています。

細川忠興は復縁して以後、妻の地位に指一本触れさせていないのですよね。側室の松の丸殿に取って代わらすこともしていないし、豊臣秀吉の養女ももらってないし、細川の地位を脅かすハイリスク案件はことごとく潰しています。
身内に明智光秀の遺児のいる細川を存続させるのは至難の業だったでしょうが、それでもやりきったこと、本書でも述べられているように凄まじい政治手腕を感じます。

玉子も同様です。彼女は、父が謀反を起こした直後、父を倒した人が天下人、関白になってしまったので、相当生き辛かったと思うのです。自分が正しいと思ったこと、価値観、大好きだった人、親族を周りに全て粉々に否定される世界です。
父の記憶が黒く塗りつぶされ、歪んで書き換えられていくのです。

狂ったり、心労で病がちになり、亡くなったりしてもおかしくなかったのではないでしょうか。それでも、なんとかキリスト教に助けられてでも踏みとどまったこと、細川忠興と子供たちを深く愛したかったのだと伝わってきます。

愛じゃ、ハリー。愛じゃ。

読んでいる本 

目をご絵に向けながら、神のもとへ帰った

ウィキペディアによれば細川忠興は、ガラシャに信仰を告白された*11595年に屋敷内に小聖堂を作っていたそうです。へー。じゃあ、1599年頃修復していたのは、それがちょっとボロくなったのかな。

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玉子のために礼拝堂を作ったり立て直したりする細川忠興

玉子が信仰を告白し、細川忠興がこんな感じで玉子のために屋敷内に小聖堂を作っていた1595年から数年間は、この夫婦に残された僅かながらの穏やかな時であったかもしれません。夫婦関係という点では。
異説もありますが、1598年、玉子は10年ぶりに末子・萬を生みます。

真田丸でヒロインのきりが玉子に仕えていましたが、あの細川忠興が丸くて穏やかだったのはこの時期だったからだと推察されます。

だけどな。

 

1595年春。細川忠興の親友であった蒲生氏郷が、高山右近に看取られて死去します。
別の本ですが、死に際が美しいのでメモしておきます。

蒲生氏郷は、キリスト教から離れたり凄まじく熱心に信仰したり、宗教的熱意のブレが大きい人なのです*2高山右近はそんな不安定な親友に付き合って、最後は看病のようなことまでしていました。)
氏郷は、(略)罪の赦しを得たいと願ったが、彼が突然亡くなったため、それはかなわなかった。(略)
右近は「聖母マリア」のご絵を持っていたので、これを危篤の病人の前に置き、罪を後悔して赦しを請い、信頼をもってデウスのお慈悲に寄りすがるようにと、促した。病人はもはや話すことはできなかったが、デウスによりよく仕えなかったことの赦しをまなざしで願い、目をご絵に向けながら、デウスのもとへ帰った。
ヨハネス・ラウレス著、溝部脩監修、やなぎやけいこ訳『高山右近の生涯 日本初期キリスト教史』聖母文庫、p.438)

レオン様〜〜〜〜〜〜〜〜(´;ω;`)

氏郷は、自分の死に際して、次のような辞世の句を読んでいます。

限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
(いずれ花は風が吹かなくとも散るというのに、短気な春の山風だ。) 

レオン様〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(´;ω;`)

享年三十九歳でしたから、死ぬのが、悔しくて悔しくてたまらなかったと思います。

でね。私思うんですよ。
細川忠興、「細川ガラシャ夫人」で高山右近と玉子の関係を疑っていたけれど、蒲生氏郷と玉子の辞世の句が贈答歌のようで面白いのです。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
(散るべき時をわきまえてこそ、花であれ人であれ美しいのだ。)

忠興、疑う方向が見当違いなんじゃな……うわっ!げふっ!
ごふっ!!!!

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すいませんでした。

当時の、仏教・神道の世界観の中での日本人キリスト教徒の内実を知ることのできる、面白い和歌二つだと思います。

北国の話(雑)

さて、あらぬ不倫疑惑をレオン様にかけるのはやめにして、閑話休題

「高山右近の生涯―日本初期キリスト教史 (聖母文庫)」では、蒲生氏郷の死を遅効性の毒による毒殺としていますが、ガン(肝臓ないしは直腸)だったという説が有力のようです。
裏を返せば、毒殺という話が出るくらい、氏郷の死は突然なもので、彼には敵が多かった、ということになるかもしれません。

蒲生氏郷はこのとき会津の領主をしていました。「北国の抑え」というものです。

すごく雑すぎてやばいレベルに雑にメモしていきます
出羽、陸奥といっても難しい場合もあると思いますので、今で言うところの「だいたい何県」で話していきますが……。

宮城県にいる伊達政宗山形県にいる最上義光、ひょっとしたら今は味方してくれてるけど関東にいる徳川家康とかとやり合わなければいけない立場です。

石川県に豊臣政権シンパの前田利家新潟県にやっぱり豊臣政権を運営する側である上杉景勝茨城県に豊臣政権に友好的な佐竹義宣、青森・岩手県前田利家が好きすぎる南部信直・利直親子(※のちに蒲生氏郷の娘と政略結婚をします)がいるというのが救いでしたが……

きたぐにさ にんげんかんけい なめちゃいけねえだ

最上と上杉は山形の日本海側・庄内地方を巡って争っていました。南部は伊達と領内を接し、緊張状態が高まっています。さらに、佐竹と伊達は父の代からずーっといがみ合っていました。会津を巡って。
佐竹と伊達が会津を巡って争って、伊達政宗が一定の勝利を収めて会津を頂いた直後、豊臣政権が会津を接収して蒲生氏郷にくれちゃったのですね!

滋賀県民・蒲生氏郷、こんな感じ。

www.youtube.com

「無理無理無理無理やっぱ無理」

この大奥のごとき泥沼に放り込まれて名君してる蒲生氏郷超人なのでは???

ちなみに細川忠興にも会津行きのお話があったそうですが、「私ですか?……私にはちょっと……」とリスク全回避をしたという話があるようです。

ところが、蒲生氏郷が若くして死んでしまったことで、まだ子供の蒲生秀行が後を継ぎます。子供に会津無理無理無理無理やっぱ無理〜

会津を誰が治めるか。

貧乏くじを引かされたのが上杉景勝でした。ええ、栄転ではなく貧乏くじだと言うことが前述でお分りいただけたかと思います。
しかも蒲生氏郷の治めていた会津のみならず、旧領の佐渡山形県庄内地方と、山形県南部などなどを与えられました。これらの領地は地続きでなかったり、道が難所だったりと一括で統治するのは相当難しいことでした(海隔ててたりするし)。
庄内を取られている最上とは仲が悪いし、今度は領土を隣接する羽目になった伊達とも緊張感が高まっていました。 
上杉家、「なんとかしなきゃ!」、と頑張ってしまったのが運の尽き。

1598年に豊臣秀吉は亡くなりますが、上杉家はぐるぐる目の状態で軍備増強や街道整備をはかっていました。前所有していた所領の今の領主に対し、一揆を扇動させることも欠かしません。(さすが戦国武将、元の所領に対する執着が異常)(伊達政宗蒲生氏郷に同じことやってる)

それで。だいたいいろいろあって、1600年。

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上杉景勝の肩を叩く徳川家康のイメージ

徳川家康*3「そんなに軍備を増強したり一揆を煽動したりして、豊臣政権に逆らう気か?」

上杉景勝「……」

 

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怒って直江状を投げつける上杉景勝のイメージ

直江状*4「うるせーーーーーーーー!!!!逆らう気なんかこれっぽっちもないわ!!こっちが真面目にやってる時に、言いがかりつけやがって!!!」

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怒る徳川家康

徳川家康「ふざけんじゃねえ!!!上杉潰す!!!」

さすが戦国武将 気が短い

そんなわけで上杉家を成敗してくれようと徳川家康会津方面へ派兵し、細川忠興はまた戦争に駆り出されてしまいました。上杉征伐です。

細川家たいへんかもしれない

実は、細川家はこのとき大変な目に遭っていました

玉子の息子である細川忠利の本を読んだ時にもメモしていたので、そちらをお読みいただければと思います。 

halucy0423.hatenablog.com

ちょうど1600年(1599年)の冬、玉子の末息子である細川忠利(まだ童形)が徳川家康のところに人質として赴くなどしていました。

ところが、上杉征伐のために、細川忠興が宇都宮に着陣した翌日の1600年8月25日(慶長五年七月十七日)、大阪の屋敷にいた玉子は、上杉征伐の隙をついて、徳川家康に対して挙兵した石田三成の軍に屋敷ごと囲まれておりました。大坂城に人質としてとられるためです。本書によれば、再三細川家は(関ヶ原の戦いにおける)西軍への人質を差し出すよういわれていました。が、拒絶していたようです。
玉子や他の家臣に対して、人質とならないように、人質になった場合自害するようにと細川忠興は言い渡していたようです。

すごく冷徹に見えるこの判断ですが、息子の忠利がもうすでに徳川の人質となっていることを踏まえると、正室である玉子が西軍の人質になると、細川忠興ダブルバインドになってしまいます。細川家は内部から二つに引き裂かれてしまいます。

この点でも、上記の本の細川忠利の、平和な世を作ろうというやる気の源がわかります。
お父さんがお母さんに、自害を命じないような世の中を作りたいという。戦争にお母さんが巻き込まれて死んだ、自分のような子を、一人でも減らしたいという。

玉子はその直前、尊敬するオルガンティーノ神父に諮問していました。
自殺についてです。

 

というわけで次の記事で終わるといいな!

 

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*1:してなかったんかい!!!!!!

*2:この「高山右近の生涯」を読むに、親友の高山右近が本当に好きで、右近が蒲生氏郷のそばから離れるとやる気が無くなるように見えます。だから愛する(?)右近に看取られてよかったね(????)

*3:とうじ幼少の豊臣秀頼の代理のようなポジションだったらしい

*4:上杉景勝の怒りを代弁して家老の直江兼続が書いてくれた