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日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』⑤

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前の記事!

 

halucy0423.hatenablog.com

謎の少年「ジョアン」君についてネットでつらつら見ていたのですが、キリスト教徒のためのニュースサイトに、細川ガラシャの子供たちについての特集がありました。

www.christianpress.jp

こ こ で も、宣 教 師 の 皆 さ ま 大 混 乱 の 巻 

忠利、何回洗礼受ける気だ。おい

ジョアン忠利」とか「二人の息子に洗礼を授け」、「忠利はまだ異教徒で……」とか、色々大混乱していますが、1606年当時、20歳の細川忠利が「何とかしてキリシタンになりたい」と告白していることから、この時点で洗礼を受けてはいないと自覚している*1と考えて良さそう。
なので、謎の少年「ジョアン」君は、自動的に兄である細川興秋と推定できます。

長兄の忠隆が細川家の家督を継ぐことになっている以上、世間の皆さんは忠隆の行動に注目はすれど、興秋と忠利の行動にはさほど注目しておらず、混同して伝えられていたことは、多々あったのではなかろうかなと考えました。

ひょっとしたら、当時の世間の皆さんは、興秋と忠利の区別をつけるのが難しかったのかもしれない。……宣教師の皆さんも、日本の皆さんも。
年齢も非常に近く、同母兄弟だから、容姿も相当似ていたでしょう。

さすがに細川家の家臣たちは見分けがついたでしょうが、忠興の親友である高山右近蒲生氏郷も、「あれ。忠興殿の下の男の子二人、どっちがどっちだったっけ」と深く考え込んだことがあったかもしれません。

ところが、ジョアン君が洗礼を受けた時、彼の両親には夫婦関係の危機が起きていました。

↓読んでる本。今回、キリスト教の結婚関連のことは他から入手した情報をいれず、かなりこの本に準拠しているので、この内容が面白かったら買うことをお勧めします

 

細川ガラシャは離婚がしたい!!

無事洗礼を終えた明智玉子=細川ガラシャは、とある希望を打ち明けるようになります。
イエズス会のオルガンティーノ司祭の話によると。

彼女は一通の書簡を寄越したが、それが私にとって大きな心配以上のものとなっている。なぜなら、彼女は司祭たちのいる西国地方に行きたいと述べているからである。

(本書、ルイス・フロイスが引用したオルガンティーノの書簡による) 

つまるところ、「細川忠興と離婚したい」と告白しだしたのです。
西国、つまるところ九州の長崎に行き、信仰生活を送りたいと考えていたようです。

どうして離婚したくなったのかは、細川忠興の過度の監視が苦しくなったからとか、明智光秀の娘として生きることが辛くなったからとか、いろいろあるようです。
細川忠興にドメスティックヴァイオレンス気質があったとも、玉子の目の前で侍妾五人を持ったとも、彼がキリスト教に入信していた侍女の鼻を削いだとも、キリスト教を信じる侍女を凌辱したとも……いわれていますが、あんまりよくわかりません。
これらの細川忠興が危ない話はイエズス会の報告に基づくものであり、彼らは、玉子ちゃん(戦国キリスト教系アイドル)を愛でて讃えているので、当然ですがアイドルの夫である忠興にきびしいげふげふ玉子が、キリスト教では重罪に当たる「離婚」を決意するにあたり、罪を犯してでも夫と離縁したがった彼女の痛みを慮り、気性が激しい人として評判だった細川忠興に問題があるのではないかと見たからです。たぶん。
いや、アイドルの夫だからではないとおも……

そもそも、細川忠興の友人の蒲生氏郷前田利長織田信長の娘を正室にしていて、ひょっとしたら、二人が復縁したことを白い目で見るような空気もあったかもしれません。

キリスト教の洗礼を受ける直前、いきなり1587年の7月に「バテレン追放令」が出されて*2高山右近が改易になるほどだったので、「信仰も捨てられないし、自分が細川家から出てった方が、子供や夫に累が及ばないよね」と思った可能性もあります。

ともかく、まだ幼児である長姫*3、忠隆・興秋や、乳児である忠利をおいてでも、細川忠興と離婚をしたくなる・しなければいけない、相応の深刻な理由があったのでしょう。

あまりよくわかっていないので、突っ込むことはやめます。
キリスト教屈指の神学者・聖アウグスティヌスはこう言っています。

彼らは私の全ての病をいやすことができるとでもいうのでしょうか。他人の生活については好奇心から知りたがるくせに、自分の生活は改めようとしない怠惰な連中!(『告白』第10巻、第3章)

それよりも、玉子は細川忠興と離婚できるのか、というところを見ていきましょう。

キリスト教の教義では、もちろん離婚することは許されません。オルガンティーノが心配以上の感情を抱いたことは当たり前です。

ですが、日本とヨーロッパでは結婚の仕組みが違うという前提があります。

キリシタン宣教師は)ヨーロッパ本国とは異なる様々な価値観、とりわけ婚姻の単一性(一夫一妻制)と不解消性(離婚の禁止)を説くカトリックの婚姻観とかけ離れた、彼ら(日本人)の結婚観に悩まされている。(本書より)

しかも、玉子はキリスト教徒だけれど、細川忠興キリスト教徒ではありません。そういう二人の離婚ってややこしいことになんない?

んん??

ここからは玉子と細川忠興が、離婚が認められる関係かどうかメモしていきます。
妻恋しさに周囲を敵に回す覚悟で嫁を味土野に逃がしたり「我が女郎花」と嫁に和歌で詠んだりする細川忠興の皆さんは自衛していただければと思います!

そもそも、細川忠興と玉子は「婚姻関係」なのか?

当時のキリスト教カトリックにおいて未信者の結婚は正当な婚姻と認められていました。

ローマ教皇史上もっとも力を持った教皇と言われる12〜3世紀のローマ教皇・インノケンティウス3世は、未信者間の婚姻は教会で認めることはできないけれども、真の結婚なので有効だと認定しました。

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ぐっすりお眠り中のインノケンティウス3世

でも、イエズス会の修道士が日本に降り立った時、「さすがにやばくね」と日本人の姿を見て考えました。日本人の離婚率があまりに高かったのです。

当時のカトリックの教義で行くと、配偶者が生きている間の再婚は原則姦淫になってしまうので、最初の結婚相手とよりを戻す必要があります。

家庭が壊れる

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インノケンティウス3世のいうことを実践したら真っ先に家庭が壊れそうな
めちゃモテキリシタン大名・大友宗麟

例えば、大友宗麟は一色夫人に奈多夫人と、妻を二回離婚しています。このまま彼に結婚に関する原則を押し付けたら、二階崩れの変を起こした時に離縁した最初の妻・一色夫人と婚姻関係を復活させなければいけません。

一色夫人ではなく、二番目の正室・奈多夫人との間に、大友義統など後継を儲けている大友宗麟は、「だったら僕はキリスト教徒やめる」と言いかねません。

そんな日本人の結婚のあり方を拒絶して「配偶者が生きているうちの再婚や離婚はダメだ」と言っていてはキリスト教の教えが普及しません。

だから、イエズス会の皆さんは一計を案じ、「日本人の婚姻は試験的な要素が強く、有効とはいえない」ので「離婚歴があっても洗礼を施させてください」とローマ教皇の特免を求めました。

だから、玉子はこの視点に立てば「そもそも細川忠興との婚姻関係は、有効とは言えない」と主張することができるかもしれません。

しかし、これはキリスト教を信仰する前に離婚をした人が受洗をする場合であって、洗礼を受けた後に離婚するのは難しそうです。

あ〜〜〜〜〜〜(´;ω;`)

細川忠興と玉子の結婚は「認められる」のか?

未信者の婚姻は認めても、キリスト教信者となったならば、おなじ宗派の信者と結婚することが望ましい、と当時の教会では言われていました。実際のところ、カトリックではカトリックの配偶者を、プロテスタントプロテスタントの配偶者をもらうことが結構多いようです。

細川忠興は前述の通り、臨済宗の檀家です。一方で、玉子はキリスト教信者です。

おっ、玉子は宗教の違いを理由に離婚できそうです。いい感じじゃありませんかね!
年がら年中お茶を点て、骨董を眺め、和歌を詠み、能を舞い、絵を描き、食にうるさい貴族趣味の夫*4と、さっさと離婚して長崎へ行ける道がひらけそうです!!

ところが。
かみは たまこに きびしいのです

さて、当時の日本におけるキリスト教の普及率は、当たり前ですが仏教・神道並みには高くありません。だから、忠興と玉子のように、仏教徒キリスト教徒のカップルができるのは必然でした。
同じく、細川忠興の友人である蒲生氏郷キリスト教徒だけれど、正室の相応院*5キリスト教を信仰していませんでした(確か)。また、黒田如水も、キリスト教を信仰していましたが、正室は熱心な浄土宗信者だったそうです。やっぱり仏教徒キリスト教徒のカップルですね。二人とも側室を持たず正室一人を愛したといわれており、カトリックが要求する婚姻の単一性(一夫一妻制)を図らずも(?)実践しています。

小西行長高山右近のように、夫妻でキリスト教を信仰しているというお家はあまり多くないのです。

これで「キリスト教信者間の結婚でないと婚姻と認めません!!」といったら、キリスト教は普及しません。

イエズス会はまた異文化とキリスト教の橋渡し役をしなければなりませんでした。

「仏・神道信徒とキリスト教徒のカップルでも結婚できる」というふうにローマ教皇に特免をもらわなければいけません。そのための口実が「日本は戦国時代であり、キリスト教信者でも政略結婚を行わないと自領の保持が難しい」ということです。

しかも、妻ないし夫がキリスト教を信じていれば、自然とキリスト教と近くなり、キリスト教に親和的な態度をとったり、もっといえばキリスト教を信仰するようになるかもしれません。
例を挙げると、大友宗麟の娘・桂姫(毛利マセンシア)はキリスト教信者でした。彼女は毛利元就の末子である毛利秀包と結婚します。毛利秀包は受洗し、キリシタン大名となりました。こんな感じでキリスト教信者が増えてくれることをイエズス会は願っていたでしょう。

逆を言えば。

玉子と細川忠興の結婚は、織田信長の命令により、明智光秀細川藤孝の間で結ばれた政略結婚でした。つまり、細川忠興と玉子の婚姻関係は有効で、なおかつ宗教の違いを理由に離婚はできません。

あ〜〜〜〜〜〜〜〜(´;ω;`)

たまこ「どうやったら離婚できるのよ!!!」

玉子の悲鳴が聞こえてきそうです。
どうしたら、妹が嫁いだ一色氏をだまし討ちにして敗残兵を皆殺しにし、妹に斬りかかられたような腹黒い夫*6と離婚できるのでしょう。

さて、玉子には耳寄りなことに、離婚を許さないカトリックですが、離婚を認めた例外がありました。

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「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい」といった聖パウロ

聖書ばんざい。

新約聖書で、聖パウロが「コリントの信徒への手紙一」で「信者でない相手が離れていくなら、去るに任せなさい」という文言があります。

これに基づき、カトリック教会は、「未信者が、配偶者である信者の信仰を妨げずに共に暮らす意思がない、つまり
キリスト教に改宗した配偶者との同居を望まない
・神を侮辱したり、信者に棄教させたり大罪を犯させようとしたりする
場合、離婚を認める」というスタンスに立っていました。

おそらくこれに引っかかりそうなのが大友宗麟の二番目の正室・奈多夫人……なんじゃないかな?!
奈多夫人は熱心な神道の信者で、キリスト教を信じる夫の大友宗麟と不仲になりました。不仲になったまではよいのですが、キリスト教を信じる家臣を棄教させようとしたり、キリスト教に入信しようとする自分(と宗麟)の子供の入信を妨害しようとしました。
大友宗麟は奈多夫人と離婚してしまいます。

……玉子はこの線をクリアーすれば離婚できそうです!!
おい!忠興!キリスト教が嫌いなんだろ!迫害してるんだろ!!おい!おい!!

ところが。

細川忠興は別に奈多夫人のように、人を棄教させようとしたわけではありません。
むしろキリスト教を信仰する人々と親しく、神を侮辱するような発言をしたことがありませんでした。
また、キリスト教を迫害したいのであれば、その後、キリスト教に改宗した母の麝香や弟の興元、息子のジョアン君に棄教を迫ったり、鼻を削いだり凌辱したりしたことでしょうが、そんなことはありません。

また、細川忠興には玉子と別居・離婚する意思はなく(たぶん)、玉子がキリスト教信者だとわかって激怒したようですが、彼女の信仰を黙認している節があります。

つまり、玉子と忠興の問題は夫婦間で努力・解決すべき問題であり、教会が介入すべきではない問題だったといえるのです。

あ〜〜〜〜〜〜〜〜(´;ω;`)

玉子と細川忠興は幸せな夫婦生活を永遠に続けることが神のみ前で保証されてしまいました。

玉子を心配していたオルガンティーノ神父は、彼女が離婚を思いとどまるように説得していました。

のちに、

私が都に来ることを希望した理由のひとつは、この(ガラシャの)霊魂に対する愛情からであった。

と神父は述べています。

彼女は、「キリストにならいて」という前述の信仰指南書から、ある言葉を見つけます。

「一つの十字架から逃れるものは、より大きい十字架を見出す」

細川忠興の残虐さを過度なまでに並び立てて、自分の被害者意識を増大させ、離婚によって、(おそらく本能寺の変に起因すると思われる)自分の直面している心の問題を表面的に解決しようというのではなく、ちゃんと自分の生涯、運命と向き合おうと思い直したようです。

そのあと、十三年間、細川忠興との結婚生活は続きます。
十三年も鬱屈して生活していたら発狂する気がします。
そうではなく、残された手紙などを見るに、正室としての仕事をきっちりやっていたらしい玉子はこの時点で、本当の意味で自分の人生を生きる、強い女性になったのではなかろうかと思います。

こんなかんじで

www.youtube.com

ずっと謀反人の娘としてみられているし、周囲の諸々もあまり変わらなかったでしょうし、細川忠興は相変わらず贅沢好きでキレやすい夫であったでしょうが、たぶん前より顔をあげて、細川家の正室として生きていったんじゃないでしょうか。

この玉子の様子を見ていると、カナダの精神科医エリック・バーン

他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。

という言葉を思い出すのです。

こんなに大騒ぎしたんだけれども

離婚をしたいと大騒ぎしていたとき、玉子は細川忠興の子供をまた産んでいました。これが次女(忠興にとっては三女)の多羅です。

細川忠興は、玉子の影響をもろにうけたのか、1595年の段階で、こういわれるようになっていました。

(玉子は)夫の越中殿をも説いて、我々の聖なる教えに反感を抱かないようになっていた。(略)時勢が改まったならば、すぐに教えを受けるようになるであろう。
(本書より、フロイスの書簡)

また、先ほどのジョアン君関連の記事には細川忠興の記事もたてられていましたが……

www.christianpress.jp

夫を慰めるのみでなく、今ではもう、夫は彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、伏見から大坂の市(まち)へ移り、彼女が習わしとしていたように祈禱に専念できるように祈禱室と祭壇の修復を彼自身が行なった(記事より、「1599~1601年、日本諸国記」)

自分は臨済宗の檀家なのにキリスト教の祈祷室と祭壇の修復までしちゃってるよ

愛妻家ってすげえな!!!!!

玉子も1599年という関ヶ原前年、つまり秀吉死後の難しい情勢の中、細川忠興をなぐさめていたとのことなので、二人は「夫のために何かしてあげる」「妻のために何かしてあげる」という、まさにお互いを労わりあう夫婦になっていたのかも……

しれない……

とかんがえると、次に更新する悲劇が少し精神的に和らぐかも。

 

halucy0423.hatenablog.com

 

 

*1:細川忠利がめちゃくちゃ忘れっぽくて、自分が洗礼を受けている事をすっかり忘れていない限り

*2:本当にいきなり出されたそうで、玉子が受洗を決意した1587年の2月の段階では細川家の不利益になることはあまりないはずでした。

*3:玉子と細川忠興の長女

*4:忠興の贅沢に、玉子が家計簿片手に憤死しかけたので、離婚したくなった説を推していきたい

*5:「冬姫」という名前で有名

*6:忠興に斬りかかった義妹の伊也ちゃんが怖すぎて離婚したくなった説も推していきたい