Don't mistake sugar for salt.

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』②

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halucy0423.hatenablog.com

前の記事はこれ。

読んでる本! 

リア充爆発しろ」レベルの幸せな結婚生活を送ってきた細川ガラシャ明智玉子)と細川忠興

ですが、結婚生活が爆発四散します。

これのせいでな↓

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本能寺の変であろう!!本能寺の変が玉子たちの結婚生活を変えたのじゃ!!!!!

イエズス会の司祭、日本(布教地)が好きじゃないと立場を失う

ひとまず、当時の日本におけるキリスト教イエズス会)の活動を振り返りましょう。

さて、本書にないことを補足していくと、イエズス会は、ザビエルの死後、日本での布教活動を地道にすすめていました。

ところが、織田信長在世中、日本での布教活動の責任者であったフランシスコ・カブラルは、日本人と親和しようとせず、日本人に人種差別的な言動を繰り返していました。
この状況を重く見たイエズス会の巡察師(視察係)のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、カブラルを批判して日本の布教活動の任を解きます。

イエズス会の基本方針は、「適応主義」、つまり「布教した現地の文化を尊重しつつキリスト教を布教していくこと」だったので、その方針に反して、日本人に親和しないカブラルは、日本での布教に適さないと考えたのです。

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ヴァリニャーノ大先生。現地の文化に適応することが大事だと説いているのだろう。

そんなこともありましたが、他の宣教師は「適応主義」に従い、着々と日本人と親和していきました。
日本語がやたらと得意なルイス・フロイスや日本が大好きなオルガンティーノがそれにあたります。たしかに、その国に興味があって、知れば知るほど現地人が好きになっていき、その文化を尊重できないと、その国に居ても楽しいことはないし、ましてや、人の心を動かす布教活動はできなかったのではないでしょうか。

織田信長は、本書によれば異国趣味のために、イエズス会の宣教師を庇護し、ルイス・フロイスをそばに置くようになります。

高山右近「神よ!!スーパーアルティメット懺悔をいたします!!私は親友の新婚生活を壊しましたぁぁぁっ!」蒲生氏郷「私もです!!神よぉぉぉ!!!」

1582年、明智光秀織田信長本能寺の変を起こした時、様々な人々が様々な岐路に立たされました。

その一人が今の大阪の高槻あたりを治めていた高山右近です。

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高山右近、実は細川忠興大親

敬虔なキリスト教徒で、カトリック福者にも認定されました。列聖活動中だそうです。

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当時のローマ教皇、シクストゥス5世が高山右近にあてた感動的な手紙から、高山右近の人柄が垣間見えます。

わたしはあなたに勧告などいたしません。あなたは、ことばに尽くせない聖徳に恵まれているからです。わたしはあなたをあらためて励ましたりなどしません。あなたはすでに情熱に満ちあふれているからです。 

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高山右近の尊敬する神父の一人であるオルガンティーノは、本能寺の変の折、安土にいました。琵琶湖を船で走行しつつ命からがら脱出します。すると、明智光秀の親類のキリシタンが手助けし、光秀のところへ連れて行かれました。
ところが、オルガンティーノは、光秀から密命を下されてしまいます。

光秀はオルガンティーノを丁重に扱い、彼らを逃がす手助けをしたが、それは光秀が彼らを介して高山右近を味方に引き入れたかったからである。
(本書より)

つまるところ、オルガンティーノは明智光秀に、高山右近への使者として使われることになってしまったのです。なんて面倒な、と彼は思ったことでしょう。

当時、イエズス会には、「布教地では戦争に介入・協力しない」という基本原則がありました。
非暴力を推奨するキリスト教の組織だから、というのもあるでしょうが、実際問題、戦争に介入すると不利益なことしかないからです*1

オルガンティーノ自身が、高山右近の軍事行動に介入することは、決してあってはならないことでした。明智光秀はその原則を知らなかったか、知っていてもオルガンティーノに無理を強要したようです。

オルガンティーノは光秀の書簡を右近に届けたが、同時に自分たちが十字架にかけられようとも光秀の要請に応じてはならないと伝えた。(本書より)

だから、上記のように訴えるしかありません。 高山右近はそれに従い、明智光秀の要請を断ります。

調べると高山右近の側にも事情があったようで、明智光秀は彼ら大阪の大名たちの対策に手抜かりがあったようなのです。
確かに、援軍をよこしてくださいとお願いしているのに、重臣を使者にせず、拾った神父(確かに高山右近の尊敬する神父とはいえ)を使うというのは、相当やる気のない対応です。
彼ら大阪の国衆たちをどこかに集めて、明智重臣が自ら頭を下げに行ったら少しは違ったかもしれません。

高山右近にとっちゃ、明智光秀の手からオルガンティーノを引き取れたことだけが収穫の援軍要請としか思えません。神父様に言われずとも、光秀に協力する気はサラッサラなかったんじゃないでしょうか。

だから、高山右近山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に味方し、明智光秀を追い詰めたのみならず、丹波亀山城まで攻めて行って明智光秀の息子(玉子の弟)の明智光慶を自害させています。

おう。高山右近、大人の事情で親友の細川忠興くんのバラ色のハピネス新婚生活♡に壊滅的打撃を与えてしまった模様。

右近のみならず、細川忠興のもう一人の親友である蒲生氏郷*2明智光秀に抗戦姿勢を示しています。

さて、当の細川忠興はといえば、もちろん大変でした。

明智光秀細川藤孝に援軍を求めましたが、藤孝はそれを受けて出家。息子の細川忠興家督を譲ります。フリーズしたらしい父親から、家督をぶん投げられた細川忠興は、父の意を受けて明智の援軍要請を拒否します。

と同時にそれは、彼の幸せすぎる新婚生活を放棄するという選択でもありました。

『細川家記(綿考輯録)』によれば、細川忠興は玉子と離婚し、彼女を味土野という場所に送りました。

しかし、玉子の親族が自刃したり殺害されたりする中、細川家は彼女を謀反人の娘として処断すること(=自害を強要すること)も、明智家に送り返すこともありませんでした。また、玉子が不在の間、細川忠興は、新しい正室を迎えることもしていません。

細川家として、このような行動に出て利益があるかどうかよくわからないため、忠興の玉子に対する個人的な感情が背景にあるのではと言われています。

Hasta la vista,baby!! 秀吉

まさに、日本中全てが自分たちの新婚生活を壊しにかかってきた細川忠興は、豊臣秀吉に出仕します。SenngokuのSamuraiしんどい。

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こんな状態になって、親友の高山右近蒲生氏郷から「お前のプライベートを破壊するつもりはなく……」「本当に許して」と慰められていただろう頃(正確には羽柴秀吉に出仕していただろう頃)、玉子は出産していました。その子が、第三子の興秋です。

本書では、味土野に送られる前に懐妊していたとしています*3
味土野に送られる前に興秋を懐妊していたとすれば、自害を強要したり斬り捨てたりすることは難しく、玉子の扱いに対する理由が見えてきます。当主の男子を出産したとなれば、なおさら細川家は興秋とその母親を殺害できません。

味土野での生活は2年間続いたようで、玉子は1584年に興秋を抱えて細川家に戻ったと考えられています。秀吉から忠興に玉子との再婚の許可が降ったのです。

細川忠興、秀吉に対して「不当離婚させられた宮津城城主とその妻にご慈悲を」「彼女のお腹には私の子供がいるんです」という弾幕を掲げ、募金活動をするなど猛烈なロビー活動をしたにちがいない。

ところが。

戻ってきた彼女。

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『細川家記』巻十三には、秀吉がガラシャに謁見を申しつけた際、彼女は、たとえ殺されても父の仇である秀吉の招きに応じるつもりはなく、強いて出よというなら懐剣で刺して復讐するといったことが記されている。(本書より)

二年の間に芦田愛菜ちゃんからアーノルド・シュワルツェネッガーへと変化していたようです……。

そんな彼女に、忠興は驚いて、

……

婦人といえども勇気があると感心しました。
そこでデレるのか……デレるのか!!!

また幸せカップルに戻りそうな細川忠興と玉子。ところが。

 

 

一度壊れてしまったものは もとにもどらない(T . T)

 

 

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*1:キリシタン大名同士が争うと、どちらに味方していいかわからないし、キリシタン大名が自分たちの助言に従って他国を攻めた際、彼らが非常に恨まれ、キリスト教を布教できなくなります。

*2:この人もキリスト教徒。レオン様。

*3:なんとなく調べたところ、興秋には1583年生まれ説と1584年生まれ説があるらしく、1582年6月に味土野に送られたのに、1584年に興秋が生まれるのはどう考えてもおかしいので、妻恋しい忠興が味土野を訪れちゃったという話もあるようです。へぇ。ラブラブだな