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そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

日本のキリシタンの「問題」娘。〜『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』①

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息子の本はこちらから!

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細川ガラシャといえば、悲劇の聖女として有名です。

本能寺の変で父の明智光秀織田信長に謀反を起こしたため、長きにわたり不遇な境遇に身を置き、最後は婚家である細川家の存続のために、屋敷に火を放って死にました。

キリスト教に入信し、信仰に生きた女性でもあります。

私生活では、夫である細川忠興との間に、三男二女を儲けました。第四子であり三男が冒頭の熊本の病弱名君・細川忠利です。

さて、悲劇の女性だの聖女だのと言われることの多い細川ガラシャですが、キリスト教カトリックの教義からすると、とんでもなく、「問題児」といって差し支えないお方です。

その①:忠興と離婚したがった。
ガラシャは、忠興と離婚することを考えていた時期があります。ところが、カトリックでは信徒の離婚を特別な場合がない限り許していません。

その②:死に方。
ガラシャは家臣である小笠原少斎に介錯されて死にましたが、これは彼女本人の希望でした。つまり、表面的にはキリスト教が禁じている「自殺」をし、さらには小笠原少斎に無用な人殺しをさせたことになります。

なるほど、従順な信徒ではありません。

けれど、現在、ガラシャは日本のキリスト教カトリック信徒から深い尊敬を集める存在であり、何本も伝記が出されているイケてる聖女です。

決して従順な信徒ではない彼女が、どうして日本のキリスト教を代表する存在になったのか。

それは、東アジアに布教することになったイエズス会の宣教師の皆さまの、ヨーロッパとは異なる文化と適応してキリスト教を布教していく、努力と涙と汗と壮絶な議論が、背景にありました。

 読む本!

 

「なーんでサン・ピエトロ大聖堂を建てるために免罪符配るんだ!!腐ってやがる!!!」

本書を読む前に、16世紀ヨーロッパの宗教情勢のことを軽く触れておきたいと思います。
サルでもわかる感じに話していきます。

日本ではちょうど応仁の乱から室町幕府が瓦解していく時期に当たる15世紀から16世紀。キリスト教カトリックは死んでおりました。

ローマ教皇の贅沢好きで退廃的な姿勢(アレクサ【ピー】ドル6世とか、【ピー】オ10世とか)の反面、ちょっと上層部に不平を唱えたら異端審問で吊し上げられる日々。
こうなれば内部から崩壊していくのは当たり前であり、1515年教皇レオ10世が、サン・ピエトロ大聖堂を再建するために「免罪符」を販売して建築費をまかなおう(正確には、もっと最悪なことに、そういう名目で自分個人の借金を返済しよう)としたところ、ドイツ(神聖ローマ帝国)の真面目な聖職者であったルターが「ふざけんじゃねえ」とキレました。

たぶん、こんな感じで。

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ルターが声をあげたこと*1で、「それ、わても思っとんねん」「おいどんも!!そう思っとりもした!」「おらも!おらも!!」とヨーロッパ各地で有志の神学者が立ち上がり、宗教改革が始まりました。

ただ、イングランドでは国王ヘンリー8世が「妻と離婚して愛人と結婚したいから」という当時のローマ教皇でさえも白目を剥きそうな理由で宗教改革をはじめ、イングランド国教会を作りました。(正確には、ヘンリー8世は、ローマ教皇と深刻な対立を引き起こしており、離婚云々はその氷山の一角にすぎません。)

そんなわけでカトリックは、イングランドを失い、ドイツ(神聖ローマ帝国)も宗教改革の嵐が吹き荒れ、フランスは宗教改革のせいで「サンバルテルミの虐殺」など様々な流血沙汰が起きて事実上内戦状態、と英独仏に権威を及ぼすことができなくなり、大幅に勢力をそがれることになりました。*2

残ったのがイタリア半島、スペイン、ポルトガル
この三国の、ローマ教皇とその周辺以外の、志高い聖職者たちは、「宗教改革っていって別の派閥を作ったところで問題の解決にならない、カトリックそのものを改革しないといけないのでは?」と考えました。

 そこでできたのがイエズス会です。

そんなわけで彼らは、カトリックを復興しよう……

しようと……ヨーロッパ……
(フランスの流血沙汰)(ドイツのプロテスタント優位)(イングランド国教会成立)

むりなやつだなこれ\(^o^)/

彼らは、キリスト教国ではない国々にも、キリスト教を布教しようと思い立ちます。
当時、中東〜中央アジアは、オスマン帝国サファヴィー朝ペルシアなどなど、当時最強と言って差し支えない、そのうえヨーロッパの国々と激しく対立関係にある大国が勢揃いしていたので航行が難しく*3、ヨーロッパと対立関係にない東アジアや、スペインが征服していたアメリカ大陸で布教をすることにしました。

そういう理由から、1549年、フランシスコ・ザビエルというイエズス会の宣教師が日本に降り立ったのです。

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神の十字架に心臓が貫かれて信仰心が燃え上がっているらしいザビエル

 

わたしたちの幸せな政略結婚 

ザビエルが日本に降り立った29年後(1578年)、ときの天下人、織田信長は婚活アドバイザーとなり、甲斐甲斐しくひと組の縁談を取りまとめようとしていました。

丹波・丹後(今の京都〜兵庫北部・大阪北部)平定で活躍している重臣二人、明智光秀細川藤孝の縁談です。
織田信長が、丹波・丹後平定にあたり、もともと協力関係にあった明智家と細川家をさらに強固な関係とし、一致団結して事業にあたることにさせたのです。

タキシードに身を包んだ明智光秀「ふつつか者でござるが……(頭を下げつつ)」
白い紋付袴に身を包んだ細川藤孝「それがしこそ、いく久しく……(頭を下げつつ)」

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明智光秀さん、細川藤孝さん、ご結婚おめでとうございます!!

……ではなく、明智光秀の娘が細川藤孝の息子に嫁ぎました。

この細川藤孝の息子(細川忠興)に嫁いだ明智光秀の娘こそが細川ガラシャ明智玉子となります。

ガラシャの結婚は、父光秀の主君、信長の命令によるものであった。信長は自身の娘や養女の婚姻を主従関係の強化に戦略的に活用していたが、それにとどまらず、家臣団における婚姻関係の形成にもきわめて積極的に動いていた。

(本書より) 

……とあるように、完全なる織田信長織田信長による織田信長のための政略結婚ですが、もともと明智光秀細川藤孝は親しく、織田信長に仕える前から行動をともにしていました。

おそらく、明智・細川両家の結束をより強めるために、双方からも望んでなされた結婚だったと思われる。(本書より)

だから、玉子からすると、忠興は、最低でも「父からの話でその存在を知っている」レベルの人だったと考えられ、見知らぬ土地に行かされ見知らぬ男に嫁がされたという質のものではなさそうです。
忠興も同様で、最低でも「父からの話でその存在を知っている」娘さんをお迎えしたと考えて良さそうです。ちなみに二人は同い年。

伊達政宗の妻(愛姫)みたいに、実家と婚家が政治的に難しい関係で新婚初っ端から夫によって乳母が惨殺されたり、前田利長の妻(永姫)みたいに、夫がとんでもない年上だったり、年齢が近く父親同士が親友だったとしても、立花宗茂の妻(誾千代さん)みたいに、自分が実家の家督を継承をしたのに横から夫がスライディング家督継承をしてきたりということは、一切ありません。

つまり、玉子は、自分の乳母を惨殺せず、とんでもない年上でもなく、家督継承に横槍を入れてくるわけではない夫を持ちました。

忠興も同じ。
友達の伊達政宗前田利長立花宗茂と異なり、妻の乳母が自分を暗殺してくるかもしれないという恐怖心にとらわれることなく、蓋を開けてみたら妻が7歳児の幼女ではなく、結婚したら「妻にかわって家督を相続しろだって!?」とわけのわからん話を持ちかけられることはない結婚をできました。

当時としては、そうとう大当たりの結婚だったと言えるでしょう。

二人の仲を阻害する要素は何もないので、順調に愛情を育んだのか、すぐに長女、長男が次々と産まれました。

おぅ……幸せすぎてまぶしいぜ

新婚生活がうまくいきすぎて、細川忠興が廊下で調子乗ってスキップしすぎてすっ転んだ日もあったかもしれません。幸せオーラを出しすぎて友達の前田利長(幼女を妻にしている)に「うぜぇ……」とムカつかれた日もあったかもしれません。

のちの友達の伊達くんや立花くんの新婚生活とは正反対すぎて、あとで細川忠興が自分の幸せすぎる新婚生活を二人に聞かせたら、こんな顔をされたかもしれません。

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この時期は
あとへ続く苦難の時期を見越して
神が大特価ハピネスセールを
この夫婦に用意してあげたんだと思います

 

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*1:以前から、イタリアのサヴォナローラなど、ローマ教皇の姿勢を非難する人はいましたが、たびたびローマ教皇やその意を汲んだ国の君主に粛清されてきました。

*2:そのほかのポーランドなどの中欧・東欧の国々も宗教改革で激しく動揺しました。

*3:当時、宗教改革と同時に大航海時代の時期でもありましたが、大航海時代が起きたきっかけは「オスマン帝国とかが怖いので東アジアと交易ができないから」というものです。