今日も砂糖と塩を間違えた

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その⑤

熊本の病弱な隠れ名君が大奮闘!最後はとうとう、島原の乱に駆り出されます。

 

✿読んでる本✿

 今まで、なんって戦国時代はジャイアニズムなんだ!とか、主人公の家督相続が黒すぎる!とか戦国武将の父上の過干渉がしんどい!とか新天地熊本で体壊した!!だが名君しぐさでことなきを得た!!とかいう話をしてきました。

ちょっと話を変えましょう。

1595年、京都で、会津若松城主(黒川城主)が40歳の若さで死にました。彼は、非常なる名君かつ名将として有名でしたが、病には勝てませんでした。彼はキリスト教徒になったりキリスト教徒であることをやめたり、常に逡巡していたそうですが、最後は親友の掲げる聖像を見つめながら、この世を去ったといいます。

その5年後の1600年。大坂で、一人の大名の妻が、敵方の人質になることを拒んでいました。彼女は屋敷に火を放ち、その炎の中、家臣に胸を突かせて死にました。自殺を選ばなかったのは、彼女が自殺を禁じるキリスト教の敬虔な信者だったからです。

時は飛んで、1614年。とある一人の戦国武将が、日本を離れようとしていました。彼は親友である細川忠興に「帰らじと 思えばかねて 梓弓 亡き数に入る 名をぞ留る」という、楠木正行*1の辞世の句を掛け軸に書いて送り、そして、一年も経たないうちに、遠いフィリピンのマニラでなくなりました。
何故、武将として優秀だった彼がわざわざ海を越えて、遥かなるマニラへ行ったのかといえば、当時、彼の熱烈に信じているキリスト教が迫害されていたからです。

この三人、つまり蒲生氏郷細川ガラシャ明智珠)、高山右近は、予想もしてはいなかったのではないでしょうか。

氏郷と右近にとっては無二の親友・細川忠興の病弱な三男坊、ガラシャにとっては病弱で心配の種である三男の細川忠利が、江戸幕府の安定化をはかるために、キリスト教と農民反乱が結びついた、島原の乱に対処するなんて。

九州のオカン役、忠利

島原の乱が起きた時、細川忠利は50代でした。

実は当時の彼は、将軍徳川家光に意見できるほど、幕政に参画し、江戸幕府でかなりの力を持っている重臣となっていたようです。

九州大名の指南役を自任し、後輩である薩摩藩の大名・島津光久や、同僚である日向延岡藩主の有馬直純にいろんなアドバイスをしています。いや、手紙を見る限り九州大名の指南役というよりオカン役といったほうが正しいですね。こいつ、母親でもないのにうざいくらい世話をよく焼いてくれるんだ。オカン気質なのかもしれない*2

島原の乱が起きた時のオカン役は体調不良。

さて、この九州のオカン役……げふげふ指南役ですが、島原の乱が起きた時、かなり重い、療養が必要なレベルの病気でした。

この人いっつも病気では……?(失礼)

ちょっと、三月のライオンの島田八段を想起しちゃったじゃないか

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こんなイメージを……抱いてしまうじゃないか!!! 

当て推量ですが、非常に病弱でいつ死ぬかわからない我が子を、生まれた時から見ているからこそ、父親の忠興は息子に無理をさせたくなくて、積極的に忠利の政治に介入(忠興的には全力で協力)したのかもしれません。

お前の存在が忠利の過労とストレスにつながっているんだよ、忠興ぃぃぃ!」と言わんばかりの本書なんですけど、 以下のご本だと、忠興が、いかに体が弱いのに無理を繰り返す忠利を心配していたかがわかります。  

キリシタンを特定する方法はないと言わざるをえない。根絶不可能な宗教だ。

さて、忠利が体を壊し、鎌倉で療養していた1637年冬、島原で農民反乱が勃発します。

ねぇ島原ぁ、ちょっと圧政じゃない?

もともとは、島原を治めていた松倉家が圧政を敷いていたことが原因でした。前記事のその④でも述べたように、かなり寛永期は異常気象が多く、九州は水害に悩まされていたそうです(現代でも九州には水害が多発していて、うう、今現在でも進行中ですね。熊本県をはじめとする九州の方々のご無事をお祈りしています……。これ以上ひどくなりませんよう)。

忠利など、優秀な藩主は農民を救済するなどして対応に当たっていましたが、そうでない藩主ももちろんいます。
それが松倉家でした。異常気象で飢饉が勃発している中、ひどい重税をかけたり、百姓を酷使したりしていました。そりゃ不満も溜まります。

しかも、九州のもともと天草領は、先ほど述べた有馬直純という人物が治めていました。有馬家は父・晴信の代からキリスト教を信奉していた家系。つまり、キリシタンの領民が数多くいたのです。それが、領主様を慣れ親しんだ有馬の殿様から松倉とかいうやつに変えられ、禁教令で迫害され、棄教させられ。
島原藩キリシタン弾圧てのは苛烈を極めたそうで。……そりゃ不満が溜まります。

信仰する宗教をかなり強制的に棄教させられるのみならず、慣れ親しんだ殿様ではない人間から受ける、非常な苛政に苦しんだ百姓が、抑制できないレベルのフラストレーションを溜めたことは、容易に想像できます。

さて、フラストレーションが溜まった百姓は暴徒化して各地を襲うようになります。

中にはキリシタンでない村を襲ってキリシタンに改宗せよと迫り、焼き払ったりしたとか。ううん、迫害された側が今度は迫害する側に回る、なんだかやるせないなあ。

本書ではこれを一揆による改宗強制としています(そもそもが弾圧で改宗を強制させられた人々の、闇落c……げふげふ暴徒化しての暴挙なので、「改宗強制」よりもっと適当な言い回しがあるんじゃないかなあ、と無知な私はちょっと引っかかりました。けれど、それしか言いようがないんだろうなあ)。

松倉家の例を見ると、細川忠利は名君なんだなぁ、とわかります。

民を大切にしよう、という時流になりつつあり、忠利など、その思想を取り入れて政治をしている大名もいる中で、松倉家は完全に発想が「民から搾りつくす(リアルに)」「従わなければ極刑!」とおかしな方向にイっています。しかも、島原には転封したて(=まだ民との信頼関係はできていない)なのに、このような民を刺激する政策をとった時点で、そりゃあ一揆の一個や二個や三個くらい起きるだろう 起こさないわけないだろう 

あまり詳しくない本になると「病弱で気弱な三男」と書かれていたり、前田利常や山内忠義池田光政保科正之など、錚々たる名君の影に隠れてますけど、忠利も民にとってはかなり「当たり」の方の藩主だったのだなと。

忠利「キリシタンとは」 

ちょうど島原藩とは島原湾を挟んでお向かいにある熊本藩は、この松倉家の問題に関わらざるを得なくなります。忠利は「島原に行かせてください」と幕閣に願い、重病をおして出陣します。

忠利、お前ってやつは本当に真面目だなあ。

で、だな。意味深なのが、忠利が、キリスト教について、幕臣の一人にアドバイスしているところなのです。

転んでも(改宗しても)、また成り帰るといいさえすればキリシタンに戻れてしまう。今度の一揆のようなことが起これば、キリシタンを特定する方法はないも同然だと言わざるを得ない。根絶不可能な宗教だ」、と。

キリシタンの改宗は仮の姿であると認識づけられ、昔の一向一揆を支配階層は思い出したと本書はしています。

一向一揆だけではないのではないか、とちょっと思ったりもします。
冒頭で述べた通り、細川忠利はキリスト教徒の母親をもっています。十四歳という多感な時期に非業の死を遂げた母の記憶は、確実に何らかの感情を伴って存在するはずです。

ひょっとしたら、父の親友である高山右近蒲生氏郷のことも、直接会ったことはないかもしれないけれど、人となりなどを父から聞いて知っていたかもしれません。

その彼が、しかも、天下泰平と徳川幕府による秩序の維持に文字通り命を賭けている彼(禁教令も厳しくちゃんと履行しています)が、「キリシタンに戻るといえばキリシタンは信仰に立ち戻れてしまう、キリシタンを根絶する事は不可能だ」と、どんな気持ちで言ったのでしょう。複雑な感情があったのではないでしょうか。

本書では書かれていませんが、先日お亡くなりになった山本博文先生の寛永時代 というご本(この間も紹介したな……)では、島原の乱で、忠利は、自分が攻めたことによって次々といわゆる「殉教」をしていくキリシタンたちを見て感動している様子が描かれています。

どうして彼は、自分が殺したに等しい、凄まじい数の人間が死を選んでいく様に、「感動」したのか。「感動」とはどういう感情だったのでしょう。嬉しいのか、誇らしいのか、悲しいのか。

病弱で真面目なおぼっちゃま然としている彼に似つかわしくない、どろりとした感情を窺わせます。

伊達くんに愚痴る忠利

さて、島原の乱がおきた1637年当時、武家諸法度寛永令)が施行されていました。
ところが、非常時っていうものはかならず法律に穴が見つかるものでありまして。

武家諸法度の中に、第4条「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事(江戸や他藩でたとえ何か事件が起こったとしても、国元にいる者はそこを守り、幕府からの命令を待つこと)」という文章があります。自分の領地で起きた一揆は自分でなんとかしろ、他人に助けを求めるな、と規定することで、諸大名が軍事同盟を結ぶことを避けたものです。

しかし、島原の乱の場合、規模が異常でした。松倉家単独でなんとかできる規模ではなかったのです。けれど、武家諸法度第4条があるので、熊本藩主でしかない忠利は、十分な武力があるにも関わらず、そしてお向かいで炎上しているにも関わらず、手が出せないのです。

それにかなりの不満を抱いた忠利は、とうとう、交友関係のあった仙台藩主の伊達忠宗に文を書いて……

完全に牙を抜かれている……

文で今の状況について愚痴りました

「江戸からの指示を待っている間に一揆軍は勢力を強めてしまうッ!」「なんなんだよ、九州担当の幕府の役人たち、江戸にお伺いをたてるって行っておきながら、なにもしない!(意訳)」などなど。

幕府の方針にムカついたので、島原の乱に乗じて東北の伊達と結び江戸に攻めてしまおうなどという、発想は忠利(や忠宗)にはないようです。まったくもって平和な時代になったものです。

たぶん、伊達忠宗も読んでいて「細川殿も、苦労するでござるなぁ〜」と苦笑したことでしょう。日本酒「勝山」片手に。仙台味噌がおつまみで。畳に寝そべってテレビをつけ、日本シリーズ東北楽天ゴールデンイーグルスを応援しながら。

そう、かの武家諸法度第4条があるので、細川忠利がいくら悲鳴を上げようとも伊達忠宗武力行使に出られないのです。仙台だし。たぶん忠利も選んで、深刻な問題にならないよう、九州とは遠方にいる、しかも友達の忠宗くんに愚痴ったのでしょう。こいつら、完全に徳川幕府に牙を抜かれている

大大名はもう自分に逆らうことはありません。徳川家光としては「俺の幕政、成功してんじゃん!!!」というべき事案です。喉元に刃(島原の乱)突きつけられてますけどね

後日談

ちなみに、武家諸法度第4条は、島原の乱の初動の遅れと忠利たち九州の大名の不満を受けて、本文は変えないものの、微妙に細部の運用規定が改定され、このような大規模な内乱に対応できるようになりました。

30数年前は、忠宗の父(伊達政宗)が、豊臣秀吉の遺言を堂々と破って忠宗の姉を徳川家に嫁がせたり、忠利の父(細川忠興)が石田三成と戦国版サバイバル鬼ごっこをしていたという事を考えれば、どんなに混沌とした社会でも、がんばれば30年で規則化され、平和になるといえるでしょう。

ちなみに細川忠利は伊達政宗の小ネタをよく知っていると思われます。忠興が政宗のことを常々報告しているからです。政宗の面白ネタは、ほとんど忠興が握っているそうですが、その面白ネタを書いた宛先は、何を隠そう忠利です。
父上から、父上の友達の変なおっちゃんの変なネタを書き送られる忠利ってだけでただただ面白い。

たぶん、親子二人の食卓(テーブルには若くして亡くなった母と次兄の遺影がある)、仕事から疲れて帰ってきた息子に、もう定年退職(してもなんか若いのでジャズバンドみたいのしてる)父が、夕飯を並べ、ビール缶をあけながらおもむろに「今日さ、いやね、立花が言ってたから確かだと思うんだけどね、伊達がさあ……ブフッ」とバンド仲間の奇行について語る図。それが想起されるね。

しかも、そんな父上の友達の変なおっちゃんの息子に愚痴る忠利という構図、さらに面白い。

パパ上、最後の襲来 

島原の乱を乗り切った忠利ですが、次に襲ってきたのがパパ上でした。

父、忠興は本書のラスボスなので最後まで出ずっぱりです。いい加減迎えにきてくれガラシャ、忠利の身体がリアルにもたない

パパ上、再びのわがまま

パパ上は八代に隠居して悠々自適の生活を送ってきましたが、四男の立孝(忠利の21歳くらい下なんだけど妹二人を除けばすぐ下の弟)に八代を譲りたいと考えるようになります。

忠興は忠利を可愛がっていますが、あまり八代と熊本藩本府は仲が良くありませんでした。何故なら忠興が小倉でのことを反省せず八代で独自の勢力を築いたから!忠興の元をやめた祐筆に「忠利に内通しているだろう」と言いがかりをつけたりなどしています。パパ上複雑すぎる。

四男に譲りたいと思ったら即行動してしまうのが戦国武将らしい即断即決、柔軟な対応上等なパパ上です。立孝を勝手に江戸に行かせてしまい、家督を譲ったことを宣言してしまいます。事実上の独立というべきでしょう。

熊本藩の藩主の父に熊本藩のコントロールが一切効かない、すなわち熊本藩の存続を考えるという発想がないので、忠利はびっくりしました。

世の中は天下泰平、決まりやルールを守ってください、というものに変わりつつあるというのに。おい忠興、フリーダムすぎるぞ

だから、熊本藩とパパ上の間には、凄まじい緊張が走ります。

そんな中、忠利が

しかし、そんななか、1641年に忠利は息を引き取ります。享年56歳。
急死であったそうです。ですが、病弱であった体に、藩主という重責を抱えて無理を重ねたこと、また、重い病をおして戦に参加したことを考えると、「力尽きた」と捉えるべきでしょう。

ああ〜ッ!!!ガラシャそっち迎えにきちゃうのぉぉぉ〜〜〜!!!!

忠利の喪失というのは、彼の後を継いだ細川光尚と、細川忠興の対立を非常に鮮明化させてしまいます。

息子でさえ持て余していた忠興です。光尚はさらにお爺ちゃまのことを持て余し、物騒な話まで出てきます。

曰く、「忠興様の差し金で光尚様が毒を盛られそうだ」とか。「光尚様に関する情報は忠興様には決して聞かせない」「光尚様に忠興様と通じていると疑われたら迷惑」だとか。怖っ!怖っ!!お家騒動の雰囲気!!

ひょっとしたら、熊本藩の人々は団結行動を乱す忠興に不信感を抱くあまり、忠利が病弱とはいえ、急に体調を悪くしてあっけなく死んだことに、深い疑いを持ったのかもしれません。係争中であった父・忠興の差し金だと疑ったのかもしれません。
なにせ忠興は、策謀に長けた戦国武将なのですから。

逆にこの案件、「共通の敵がいれば全員団結する」の法則で、忠興を悪者にして、熊本藩内の団結を強めることになります。

1645年に、主人公より4年長く生きたラスボス、細川忠興は死去します。

でもラスボス(忠興)は主人公(忠利)を溺愛しているよ♡

さて、細川家の家族の関係は、そうとう殺伐としているのか?という本書ですので、お口直しを。
先ほども紹介した「 江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」によれば、忠興が、忠利の死にひどく混乱している様子が垣間見られます。

彼は忠利が倒れたことを知らされてすぐ、居城だった八代城から忠利のいる熊本へ赴いています。歩いて7〜8時間かかる距離を、6時間半くらいでたどり着いています。もう80こしてるのに……じじい無理すんな、いや、無理しなければならなかったのだ

嫁の顔を見たからという理由で庭師の首を飛ばす男(まだいう)の手紙だと思ってお読みください

「忠利の病気、ずっと私にかくして、良い良いとばかり言っていたので、そうかと思っていたところ、今日十四日、急に危篤だと知らされ、驚いて、(略)忠利の様子を見たところ、もうだめで、私のこともわからず、目も明かない様子だった。ああ……、(略)。私は混乱していて、なにがなんだかわからない。」
—『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社文庫)』山本博文

愛が深い。50代半ばの息子にここまで書くものだろうか。

「もうだめで、私のこともわからず」というところが、「親だなぁ」と感じました。自分のことさえわからないというところを、重症度の判断基準にしているあたりが。

そして、これの宛先が忠利の子である光尚。つまり、祖父としてもっとも気丈に振る舞わなければいけない相手です。孫相手にこんな混乱した心情を暴露するあたり、忠興がその時、非常に精神的な危機にあったことを思わせる文面です。

忠興は、正室のみならず、その所生の子供達のほとんどを生きているうちに亡くしています。娘たちは早死にし、次男の興秋は大坂の陣で大坂方につき、自害しています。今度は三男の忠利の番でした。その痛みはいかばかりだろう。

忠利が死んだ翌年、忠興は、唯一生き残っている、廃嫡したはずの忠隆を手元に招いて、和解したそうです。そこからも、正室との間では最後の一人になってしまった子供を引き止めたい、父の深い寂寥を感じる気がします。

細川忠利って結局〜江戸時代に移行するお殿様たち

本書を読んで強く感じたのが、「殿様に強い個性が必要」な戦国時代と、「殿様に個性のない」江戸時代の中間に位置する、「幕府の支配体制の中、個性を消して幕府と民のために奮闘する」細川忠利の世代の殿様たちの面白さです。

細川忠興明智光秀、いや、三英傑と呼ばれる人々を始め、戦国武将には決してできない仕事がある——、それこそ、と細川忠利のあり方を通じて本書は訴えかけています。

いくら戦国武将である彼らが民を想っていたとしても限界があります。彼らは戦争をする宿命にあり、そのことこそが民を苦しめるのです。また、いくら関ヶ原の戦い大坂の陣で「天下泰平」になったとしても平和を維持する仕組みを作る意識がなければ無理なことです。そして、家光はそれに成功したし、忠利はそれに完全なまでに従いました。

秩序だった仕組みの中で、「私」なき非恣意的な支配と民の救済をする殿様こそが名君だというプロトタイプが、ここに出来上がったというべきではないでしょうか。

はあ、非常にくだらないことを言ってもいいでしょうか!
忠利、肖像画を見ると、優しげで華奢で目が二重で色白で丸顔で、言い換えると、オッさんのくせにとっても可愛いですよね!!
浅黒くて面長で「私がハイソだ」みたいな忠興の肖像と見比べると、ガラシャは色白で丸顔だったのかもしれない(暴論)。そりゃ忠興もかわいがるわけだ(暴論)!


おしまいおしまい!お付き合いいただき大感謝です! 

*1:南北朝時代南朝方として活躍した武将。楠木正成の息子。

*2:おかげで光久からは辟易とされています