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麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その④

熊本の地味な名お殿様の大奮闘話。①では戦国時代のジャイアニズム感②では家督相続のめんどくさ感③では戦国武将の父に悩まされる話を書きました。

今回は新天地での奮闘を書きます。

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1599年の閏3月4日未明。

主人公・細川忠利の父である細川忠興は、福島正則黒田長政池田輝政浅野幸長加藤嘉明らというキャラの濃い豊臣政権の中堅どころの武将ともに、大坂城下の加藤清正の元に武装して集まっていました。

豊臣政権の五奉行の一人、石田三成を襲撃するためです。

原因はかなり複雑ですが、一番は文禄・慶長の役において、石田のような後方支援をした官僚と、加藤清正細川忠興のような前線で戦闘した武将のあいだに、凄まじい確執ができたからだといいます。

ムカついたから殺っちまおうぜ、これぞ古式ゆかしい戦国の香りを感じます。

加藤清正と愉快な6人の武将たちは、大坂備前島にある石田の屋敷へと進撃を開始します。
ところが、文系だと言われがちの石田も、だてに戦国人をしていたわけではなく、自分が暗殺される事を察知しており、当時北関東の名門で大大名だった佐竹義宣の助けを得て、五大老の一人である宇喜多秀家の屋敷へと逃げていました。

佐竹義宣宇喜多秀家もほぼ同年代で二十代後半。あの濃すぎる7人を敵に回すなんてじゃっかん軽率げふげふ、若い熱気を感じます。

7人の愉快な武将たちは諦めず、石田三成とのサバイバル戦国型追いかけっこ(お察しください)を始めます。石田が伏見城に立て篭ってそれを囲んだりしました。伏見城でドッカンドッカン何をやっとるんだ貴様らは。

戦国時代はかようにめちゃくちゃな時代なのです。

この案件は、親徳川家康派の豊臣政権の奉行である大谷吉継*1が、危機感を覚えて調停を試み、それをうけて五大老徳川家康が仲裁をしたことで落着します。

豊臣秀吉死後から豊臣政権には相次いで激震が走りましたが、その嚆矢となったのが、この7人の有力中堅武将が徒党を組んで石田三成を襲撃したことでした。

さて、歴史に「もし」、とつけることはタブーとされています。

ですが、あえてもし、細川忠興がこのとき、三十数年後にタイムリープできたとすれば、石田三成のいる伏見城加藤清正を投げ込んで爆弾を仕掛け、大爆発させたかもしれません。

石田三成に嫁が殺されずに済んだ上、跡取り息子の忠利が、加藤清正加藤清正の息子のせいで過大なストレスを抱え、ぶっ倒れずにすんだだろうからです。

✿読んでる本✿

 原因:加藤清正vs小西行長in熊本 

さて、時は飛んで1634年。四十代の細川忠利は体調を崩していました。

きっかけは、主君・家光の命令で熊本に国替えになったことです。これは家光が秀忠の死後、その影響下から脱却して最初にやった仕事の一つであり、忠利が家光にいかに信用されていたかがわかります。病弱同士、気があったのかもしれません

現在では、熊本はくまモンが治める場所ですが、当時は加藤清正の息子の加藤忠広が治めていました。家光は彼を改易して、実績ある忠利をそこに据えたのです。

忠広は品行がよろしくなかったので改易されたとされていますが、本書では改易はその程度の問題ではなく、加藤家の治める熊本藩で、並みの藩主が介入できないほどの根本的に大きな問題が起きていたのではないか、としています。

忠利が熊本に降り立った時、熊本はかなり悲惨な状況でした。

やっぱり小倉の時と同じような歪み(木が取れない場所や魚の取れない場所に木の年貢や魚の年貢が課される、加藤家の家臣や代官たちが不正をしている、それによって大名家の収入がなくなる等)があちこちで頻発していたのです。

さらなる歪みの原因は……?

さらに熊本は、大きな問題を抱えていました。
1634年から遡ること三十数年前、ちょうど加藤清正と忠利の父親が石田三成を襲撃していた頃、熊本は二つの藩に分かれていました。加藤清正の治める熊本と、小西行長の治める宇土です。片方が加藤清正(概念)、片方が海軍に特化したキリシタン系領主と、領主としての性格も違うので、もちろん政治の仕組みも何もかも違ったでしょう。ですが、関ヶ原の戦い小西行長が斬首され、宇土加藤清正の治める熊本に併合されます。

性格の違う二つの国が併合したとき、そこに生まれるのは、格差のようです。

なので、宇土地域は旱魃が起きた際、すぐに貧乏となり、「宇土とその周辺が貧乏じゃねーか!!!!」「ちょっと加藤さん、ちゃんと格差是正してくださいよ!!!」と三十数年後、細川忠利は頭を抱えました。この人、ことごとく「原因:関ヶ原の戦い」的な現象に振り回される不憫な人です。
為政者の皆さんは子孫の世代の為政者の皆さんに迷惑をかけないためにも、早めに問題は解決すべきだと思います。

熊本における過重なストレスと激務で、もともと虚弱体質だった忠利は体調を崩してしまいました。下血まであったというので、相当内臓が壊れてしまっていたのでしょう。
忠利は病気がちの体を抱えつつ、なんとか藩政に立ち向かっていきます。 

立花くんに愚痴り、松井さんに煽られる忠利

さて、1615年に大坂の陣が終了し、空前絶後超絶怒涛の戦争のない世の中がやってきました。

忠利をはじめとする大名たちは領土経営に注力していきます。

どんな行動をする君主が「名君」になったのか?

忠利たちの活躍した寛永年間は、異常気象が頻発したとされています。九州の異常気象はかなり深刻なものであったようです。1636年、忠利は、熊本藩の近隣の藩である柳河藩藩主・立花忠茂(この時代、まだ忠茂の養父の立花宗茂が藩主をやっているはずですが、忠茂が柳河藩の実権を握っていたようです)に愚痴っています。

「春中雨が降り続いたから、百姓の負担が尋常じゃない」だの「家臣も困窮してる」だの「富裕層が困窮してるのだから下々の者はもっとひどいはず」だの。

こんな名君な愚痴があってたまるものだろうか。

藩主のくせにッ!年貢とか納めさせてるくせにっ!愚痴られた立花忠茂も似たり寄ったりのことを考えていたと思われます。

お、お、お前の父親たちは、相次ぐ戦争で!百姓とか普通に!苦しめてた!人種なのにッ!!!ドッカンドッカン城を燃やしたり味方を三方に分け敵を襲撃!!とか普通にやってた人種なのに!!

細川忠興立花宗茂って名将だけど!!!その分!殺ったってことだから!!!農民を!

戦争は人が唯一止めることのできる災害だということを考えると!めちゃくちゃ生きる災害だから!!!

たったの30年で、戦争に勝てる領主が優秀なのではなく、民を傷つけず、救済する領主が優秀だという価値観に変わっていました。

「名君」であることを求められる

それをさらに本書で鮮明に印象付けるのが、首席家老の松井興長に煽られていることです(忠利の異母姉の夫、つまり義兄に当たる人です)。

熊本に国替えになった直後の1633年、忠利は厄払いに使うお米(お金の代わりですね!)を放置していたようです。すると、松井さんから「このお米どうするんです?」とツッコミが入ります。

元の文が現代語に訳されてても難解なので意訳をします。

松井さん「てか殿、そのお米、子々孫々まで取り置けるものじゃないですし(笑)こういう場合、下々の者(マジで原文に「下々」って書いてある)は利殖に回したりするものですけど、殿は殿様ですからね〜。殿様的な御用に使って欲しいですよね(笑)女房衆の噂にもなってるし、どうするんです?(笑)」

もう少し元の文面は穏やかですが、めちゃくちゃ煽りまくっています。

忠利は大爆発します。

忠利「下々の者の利殖方法など私は知らん!殿様的な御用なら何に用いてもいいお米なんだから、飢えた農民の救済に使う!それでいいだろ!?」

下々の者の利殖方法など私は知らん、と言い切っているあたり、凄まじいお坊ちゃま感が漂うキレ文ですが……。

結構筆致も荒々しいようで、忠利はこの時、煽られて激昂していたようです。女性たちの噂になっていると聞くと、いかに病弱な忠利と言えどもちょっと殿様の名君っぽいカッコいいところを見せたかったのでしょう(違うと思う)。

松井さんの目的は忠利自ら「飢えた民を救う」と言わせることにあります。そして忠利はその通りの言葉を返しています。

つまり、首席家老の松井興長も、その主君である細川忠利も「民を虐げる」ことは決してしてはならないことで、「飢えた民を救う」ことこそ、主君のしなければならない仕事であると共通で認識していることになります。

やはり、民を虐げていた戦争がポンポンと起こった30年少し前とはまるっきり違うのです。

「私」を消していく作業

③で、個性豊かな細川忠興がどれだけ災害だったか(本書では忠興=災害警戒レベル4〜5、忠興が動いた時には何らかの災害が発生している場合が多く早急に避難がもとめられます、という認識の模様)を書きました。

でも、こんな個性豊かな藩主がいたらちょっと幕府や周囲に不満がたまると爆発し、戦国の世に逆戻りしてしまうでしょう。

腐った料理を出したと上司に殴られたせいで謀反を決意するような祖父の明智光秀のような話や、仕事で来ている庭師の首を、妻の姿をみたからとはねる父・細川忠興のような話はどう考えてもこれからの平和な世の中にあっちゃいけない話なのです。腐った料理でも許される、というか怒られても軽率に天下を二分しない、「主の個人的な感情でアレなことにならない国・日本」を目指さなくてはいけません。おニューな価値観を投入せねばなりません。

ちなみに忠興は、忠利の晩年も健在で、熊本藩を二分しかねないことをしています。

江戸時代にあっては奔放すぎるほど自由奔放な父の後ろ姿を見ていた忠利は、考えたようなのです。

平たく言えば、政治に私情を入れるのはやめることにしました。

忠利は高度にシステマティックな人事評価制度を作り、しかも藩主である自分がそのなかに組み込まれて私情のない支配に取り組み始めました。
現代では当たり前の話になっていますが、主従の関係性を重んじた当時としては、こういった忠利(世代の藩主たち)の思想はかなり斬新であったようです。


次回でおしまいです。
細川忠利、島原に駆り出され、ラスボスとの最終決戦に挑みます!

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*1:豊臣政権下のエリート奉行であるにも関わらず、徳川家康に非常に近く、なおかつ西軍という、関ヶ原の戦いの結果を知っている後世の人を混乱させる来歴の持ち主