今日も砂糖と塩を間違えた

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麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その③

今回も今回とて熊本の名君(の可能性が高い殿様)の話です。小倉で修行を始めます。

 

✿読んでる本✿

 

① で戦国時代はジャイアニズムしか通用しないこと②で、細川忠利は、江戸時代への転換に対応できなかった兄たちを踏み越えて細川家当主になったことまで読みました。

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さて、忠利は家督相続を行い、まずは小倉藩主となります。
京都宮津出身の人が、北九州の小倉藩主になり、その後熊本藩主になるんですから、江戸時代の人事異動も大概だなと思います。

小倉城のホームページには細川忠利のことがあんまり触れられていません(T . T)が、このページで述べられている、忠興の、商業を保護し、外国と貿易することによって藩を富ませていく藩経営モデルは、忠利の時代には立ち行かなくなっていました。

幕府の鎖国政策が進んでいて、気軽に貿易ができなくなったからです。

父親を真似ることのできない忠利は、藩主として、かなり変革を求められるようになります。

本書では、「あれもこれも!!!忠利が苦労するのはほとんど父親の忠興のせい!!!!!」という姿勢を貫いています。潔いです。

父上、なんでこんな小倉の統治がゆるゆるなの……?

1621年に小倉藩藩主となった細川忠利ですが、しょっぱなから問題にぶつかります。

統治がゆるゆる〜〜〜〜!!!

新藩主に対する社交辞令の一面もあるでしょうが、配下の奉行たちが「忠興様に上申したくともできなかったことを、忠利様に申し上げます——」と頭を下げてきたのです。

そこで判明したのが、小倉の統治がかなり弛緩しているという事実でした。

①地域の実態にそぐわない各種課税がなされている(漁をしない村に魚年貢を課す、すでに放棄されている耕地に年貢を課すなど)
②いくつかの施策のせいで百姓が経営危機に瀕し困窮している(これは当時ではかなりの悪政と考えられていました)
③手永(後述します)のトップ(惣庄屋)の人事がおかしい(総庄屋が死去しても後任が据えられない、子供が継承しても給料が払われていない等)
④細川家の直轄地と家臣が治めている地域の年貢をはじめとする諸々の負担が違う(家臣が治めている地の方が重い)、

などと言った申し入れが次々と忠利の元へ舞い込んできます。

忠興……老いたな(老いたな父上と同じノリで)

戦国の行政に詳しくないのでわかりませんが、これは、本書で示唆されていたように、パパ上本人の資質の問題というより、戦国から江戸初期の大転換の中で生まれた歪みなのかなあと思います。

まあともかく、小倉の統治がゆるゆるで、忠利がびっくりしてしまったのは間違いないようです。そして、ゆるゆるな施策のせいで、小倉はかなり疲弊していました。

忠利のしなければならないことは、内政を充実させ小倉を回復させることになりました。

と、とりあえず解決してみるよ!!と奮闘する忠利

彼は家臣たちの申し入れを裁可し、目安箱を設置*1し、藩主就任から少し時間は開きましたが、領地を自ら見回るなど統治の引き締めを図っていきます。

なかでも、彼が「戦国生まれではあるが戦国武将ではない」と印象付けられる統治姿勢があります。

百姓たちに対してその地を治める家臣たちが実力行使を行うことを徹底的に避けるように、百姓とそこを治める家臣の係争があれば上に持っていき裁可を仰ぐよう命じていることです。

気に入らなければ燃やせ!そして殺せ!犯し尽くせ!!の世の中ではないし、藩主もそれを望んでいないのです。
(でも忠利、「村がつぶれようとなんだろうと何が何でも年貢は出せ」とも言っていて、その点は「THE✧*。◝(*’▿’*)◜✧*。藩主」なのですがね)

また、小倉藩(細川家)は、手永制という、いくつかの「手永」という区域に領内を分割し、藩主がさほど地域にうるさくしつこく介入しない代わりに、それぞれの手永で行政・財政、教育、軍事などを行うという独特の制度を使っていました。

いわば「民である君たちが、基本なんとかしてくれたまえ。トップの僕は困ったことがあれば手を貸そう✧*。◝(*’▿’*)◜✧*。」という丸投げ制度げふげふ、民と地域の自主性を尊重し、彼らを行政の主役に押し上げた制度です。

監督はきちんと行いますし、不正をした手永のトップ(惣庄屋)には厳しい制裁(=成敗)が待っています。忠利もちゃんと不正をした手永のトップ(惣庄屋)を成敗しています。

忠利は、奉行をはじめとした家臣の皆様の助けを借りて、なんとか治世の滑り出しを良好な形で終えたようで……

おえたようで………

終えたよ……う……うわーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!

ただとし の まえ に ちちうえ が らんにゅう した ようだ !!

 

父上、差し上げた領地で好き勝手したり、小倉の統治に口を挟むのはやめてください。

主君と臣下は似る、と言いますが。

細川忠利の主君・三代将軍徳川家光は、「私は祖父や父とは違う。生まれながらの将軍だ!」と就任時、大見得を切ったにも関わらず、治世の初期はパッとしませんでした。父の徳川秀忠が大御所として存命で、事あるごとに政治に介入してきたからです。

この本に秀忠vs家光親子大決戦が書かれているのでご参照を。

寛永時代 (日本歴史叢書)

寛永時代 (日本歴史叢書)

 

で、忠利も同じようなことに苦しんでいました。

魔境・中津

当時、忠利に藩主の座を譲った忠興は、小倉藩中津城に隠居していて、隠然たる権力を持ち続けていました。

正直、中津城の周りだけ、小倉藩が容易に介入できない地帯でした。
結構これは痛手なのです。

忠利たち小倉藩の人間は、忠興のいる中津にどれほどの人間がいて、どれほどの収入歳出があるのか、正確に把握できないほどでした。小倉藩のなかにありながら、裁判権統治権も忠興が握り、小倉藩の手の外にある地域でした。これでは小倉藩のなかに不平等が生じてしまいます。

また、隠居した前当主にあてがわれた土地なので、江戸幕府に対しなんら義務を負いませんでした。わざわざ忠興は忠利に、小倉藩が背負った江戸幕府から与えられた業務に中津は協力しないということを書状で書き送っています。

まさに魔境。

たぶん穏やかな忠利は、「……はい」でこの案件については済ませています。

済ませてはいけませんが、母の死後、シングルファザー*2として育ててくれた義理があります。
……それに、歩く大量破壊兵器だし。だまし討ちの末皆殺しとかする人だし。

忠利は、不満タラタラの家臣たちに対して「忠興様の考える通りにせよ」「中津には手を出すな」をそんなに連呼しなくてもいいのではないかと思いましたが、忠興が猛獣だから仕方ない。中津に容易に触れてはいけないのです。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

気に入らない奉行がいるのでやめさせておいた!

忠興は、忠利の小倉での人事に横やりを入れるようになります。

忠興「忠利ー、我が愛する息子よ!気に入らない奉行がいるのでやめさせておいた˚₊*(* ॑꒳ ॑*)*₊˚」
忠利「ゔぁぁぁぁ(人事を勝手に変えたのは貴様か)ーーーー!!!」
忠興「だって彼、私と仲悪いだろう?統治に差し障りがあると思って」
忠利「ゔぁぁぁぁぁぁぁあ(有能な奴だったのに)ーーーーー!!!」

諸君、忠興の思考こそが戦国時代の武将の考え方です。主君との人間関係を重んじる、それがSENGOKUのSAMURAI

しかし、この人間関係を重んじる姿勢、江戸初期・忠利の時代になると災害でしかありません。藩主との人間関係が悪くとも、優秀な人材を採用したい、という一人ひとりの能力にフェアーな姿勢を見せる必要があったからです。
家臣との関係が良いに越したことはありませんが、人間関係を重んじたところで、戦の場で忠臣に体を張って助けてもらうなんて場面もない、平和な時代の藩主に利益がないのです。
それよりも算術が出来たり学識に通じていたり、対外調整が上手にできる人物のほうが藩にとって利益になるのです。

ですが、忠興にしては当然のことをしたと思っている(=自分と仲の悪い人間を仕えさせておくのは忠利のためにならないと判断した)ので手に負えません。

以後、忠利は忠興と臣下の人的関係について神経質になっていきます。
忠利は「忠興と仲の悪い家臣を全員リストアップしろ」「どうして仲が悪くなったのか経緯を私に報告しろ」と家臣に命じています。
忠興と仲の悪い家臣は、忠利に叱られて、そのあと忠興のいる中津とは遠方に左遷されている人もいます。
いや、左遷というよりも、忠興から遠ざけたとみるべきでしょう。
叱り、中津から遠ざけたという体裁にしておけば、忠興に顔が立ちます。忠利が憎まれ役になって、父から有能な家臣を守ったと読むべきなんでしょう。

気苦労が絶えない。濃い父親を持った息子の。

少し話は変わりますが、前任者からの書類の引き継ぎって今の職場ではかなり重要なことですが、忠興と忠利の間にはありませんでした。
それだけでも忠利の苦労がわかる気がします。

理由はいろいろあるようですが、忠興からすれば「引き継ぐという発想はなかった」というのがいちばんのようです。
戦国時代は書類の引き継ぎ文化というのは、あまりなかったそうなのです。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

さすがに忠利の堪忍袋の尾が切れる

息子がこれだけ気を使っているのに、忠興は頻繁に小倉藩に介入してきます。

自分(中津)のことは介入を許さないのに、忠利(小倉)のことには頻繁に口を出す、まるで父親のような感じです。

あ、父親だ

さすがに、忠利は父親には怒れないので、父の中津の家臣にマジでキレた書状を送っています。父が介入してくるため、藩政でごたついていたときのことです。

マジで迷惑!!!父上の望みを全部叶えられるわけじゃないんだよ!こっちはすんげえ我慢してんの!!!ほんと我慢してんの!!!ほんといい加減にして!(意訳)」

と。

しかし 俺たちの忠興(ラスボス)は そんなんじゃ すまない

息子からキレられてもあんまり反省しなかったらしい。熊本藩でもおなじことやらかしました。

ニューエイジのニューリーダー

いままでとは話は変わりますが、忠利は、忠興からもらった大事な茶道具を幕閣の酒井忠勝に売りました。

当時、異常気象により、小倉をかなりの飢饉(寛永の大飢饉)が襲っていたせいで、そのためのお金が必要だったからです。

忠利が活躍した寛永時代は、蝦夷駒ヶ岳の火山噴火、大雨、洪水・干ばつ・虫害などが発生する、まさに全国的な異常気象の時代でした。この寛永の大飢饉のせいで、江戸幕府は施政方針を変え、より秩序化された制度を重要視する文治政治に移行していきます。また、百姓をより大切にしていく路線へと転換していくのです。

忠興が重要視した、茶道による大名や上流階級同士の人付き合いより、百姓の暮らしのほうを迷わず選んだ忠利は、忠興とは明らかに異なる、ニューエイジのニューリーダーだったといえるでしょう。

 

さて、単にトップに座るものとしての価値観が異なるだけで、忠利と忠興との個人的な関係はかなり良好でした。

この親子は、そんなに喋ることがあるのか、恋人同士のLINEかよ(親子なんですけど)と言わんばかりに頻繁に連絡を取っていて、非常にくだらないことから政治情勢までぺちゃくちゃしゃべっています。
じつはそれが、江戸初期の、かなり重要な歴史的資料になっています。


ってなわけで!小倉で実績を積んだ忠利、家光様に見込まれて熊本へ移ります、というところで④へ!

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*1:吉宗の前にも実はあったのです

*2:ガラシャの死後、忠利の母代わりになりそうな、つまり正室を迎えていません。まだ彼女を亡くした時、30代だったし、複雑な情勢下の中で徳川ゆかりの女性を正室にもらっても良さそうですけど。……それだけガラシャが大好きだったと言うことにしておきましょう(短絡的)!あ、でも側室はいます!