今日も砂糖と塩を間違えた

そいつが歴女で隠れ腐女子だ!読んだ本や思ったことの記録だ!!

麒麟を留めるために〜「細川忠利 ポスト戦国時代の国づくり」その②

熊本・九州の皆様のご無事と復興を祈念しております。

熊本の名君の話ですので、よろしければ、心が辛い時にでも読ん……でも、もっと私の文章が下手すぎて疲れるな。やめておきましょう

 

✿読んでる本✿

 

 ①で、戦国時代がどれほどジャイアン理論しか通用しない、弱きを挫き、強気を助く世界だったか、本書の主人公・細川忠利のご家族を例に述べてきました。

halucy0423.hatenablog.com

 

さて、この記事では、

素手で牛を投げ飛ばす腕力がなくても生き延びることができる、
夫婦喧嘩で庭師の首は飛ばない、
平和な国・日本

を目指す(仮)までの忠利の動向を読んでいきます。

忠利が細川家当主になった話は、かなり経緯が複雑で、情報が錯綜しています。本書はそれをまとめておられるようです。

 もともと当主になる立場にはなくてぇ……

 江戸の徳川家に人質へ赴くまでの、幼少期の細川忠利がどう生きていたか、細かくはわかっていないようです。

あまりに病弱だったことから、敬虔なキリシタンだった母の珠(ガラシャ)がキリスト教の洗礼を受けさせたという話もありますが、本書には掲載されていませんでした。とはいえ、父の忠興も妻の勝手な改宗にマジギレしたりしましたが、総じてキリスト教に関係深く*1、母は熱心なキリシタンですから、キリスト教にかなり近い環境で育っていたかもしれません。(そんな忠利が島原の乱で功績をあげるのですから、皮肉ですね)

細川家の公式史書「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」によると、彼は8歳から12歳の時まで、京都の愛宕権現の社僧*2の元へ弟子入りして、勉学に励んでいたとしています。

壮健な兄二人のいる大名の三男坊ですから、後継としての重圧もなかったでしょう。

そもそも病弱なので、成人できれば万歳だ、と父母は思っていたかもしれません。

細川家の家族関係(?)が1600年以前の状態のままであったら、しばらく勉学に励んで、他の子供のできない重臣の家に養子へ行くとか、分家を創設するとか、そういう未来が待っていたでしょう。

実際のところ、三歳年上の次兄の興秋(のちに細川家の跡目を巡って忠利と対立することになるのですが)は、忠興の弟、つまり叔父の養子になっています。

しかし、忠利の人生を大きく変えたのは、関ヶ原の戦いでした。
いや、正確には長兄の細川忠隆の政治的決断力の低さでした

「優等生」の長兄・忠隆

忠利は、たった十四歳だというのに、どうしてわざわざ箱根という天下の険を越えて、江戸まで赴いて人質になったのでしょう。

それは、「忠隆がやらかしたからだ」と本書はしています。

細川忠隆は六歳年上の忠利の同母兄であり、文武に優れた優等生として、将来を嘱望されていました。自他共に認める細川家の後継で、父と常に行動を共にし、ご当主修行に励んでいたと思われます。まさに不足のない次期当主を細川家は手に入れたはずでした。

しかし、彼は思わぬところで失態を見せます。 

徳川家康暗殺計画」の余波により……?

関ヶ原の戦いで東軍の中心として活躍した細川家ですが、べつに最初っから家康に近くて、バリバリ家康派というわけではありませんでした。
バリバリ家康派なら、人質を出す必要がないです(ぼそっ)。

たんに、保身に保身を重ねた結果、なんでか東軍の中心になっていたのです。
忠興も「え?なんで、俺、なんで徳川とかいう縁戚関係もあまりない家のために頑張んなきゃいけないの?こんなに死ぬ気で??」と超びっくりしてたと思います。

細川家が保身を重ねなければならなくなった原因、それは「徳川家康暗殺計画」です。
字面からして、怪しげな小説の怪しげな計画としか思えませんが、これは「徳川家康(が)暗殺(されそうになった)計画」という計画ではなく、「徳川家康(を)暗殺(する)計画(が発覚したんだけど、犯人は誰だ!!)」というものです。

首謀者として挙げられたのは、前田利長という加賀の大名です。

1599年4月、金沢・加賀の大大名にして五大老の一人、前田利家が死去しました。その後を息子の利長(当時三十七歳)が継ぎます。

利長は、豊臣秀吉が死んでから後、重臣たちの内部抗争が激しくなり、非常に不穏な政情になってきた中で、権力を伸長していく家康に危機感を抱きました。

「だから殺っちまえ」、と利長が考えたかどうか定かではありません。それは死んでいる利長に聞かなければ。

ですが、早くも1599年9月に「徳川家康暗殺計画」の首謀者として彼の名があがるようになります。家康は加賀へ出兵すると言い出しますが、利長は実母を人質として差し出し、事態は落着します。
利長は上手であったのか、そんな事件を起こしたにも関わらず加賀を堅持し、加賀百万石の大名となっています……が。

密かなる危機に陥っていたのが細川家です。

こんなかんじで

細川家・前田家超略系図

 利長は、千利休の弟子で、同じく利休の愛弟子であった細川忠興と非常に近しい間柄でした。でもって、利長の、かなり年の離れた同母妹が、忠興の息子である忠隆に嫁いでいます。

どう考えても利長と共謀している立場にしかみえない細川忠興(と細川家)。
これで家康暗殺計画のことを知らない方がおかしいです。

ちなみに忠興の特技は情報収集。となれば、「知ってただろう」と考えるのが普通です。徳川家康はそう考えました。だから細川家に圧力をかけ、忠興はひたすら身の潔白を証明しつづけ、関ヶ原の戦いで中央切って死闘する羽目になります。

で、三男である細川忠利を江戸に差し出します。

弟を危機に晒し続ける兄

細川忠隆の話にもどります。
父が嫌疑をかけられ、弟まで人質に出されたとき、取るべき道は、離婚して前田家と縁を切ったように見せかけることです。

実はこの発想、たいして難しいわけではありません。前例が身近にあるのです。

まさに忠利と忠隆の父母——忠興と珠こそ、似たような目にあっていました。

本能寺の変の後、妻の珠が明智家の人間なので、明智側につくと疑われた忠興は、珠を離縁して、自分と隔離しています。ほとぼりが冷めたころに復縁を願い出て、また再婚しています。
その間、彼女の元にこっそり通ってできた子が興秋おpklんjふgcrsd

同じように、千世を一旦離縁して、ほとぼりの冷めたころ、再縁すればよかっただけです。解答がそこにある問題です。

なのに、忠隆は何もしませんでした。

不足のない次期当主は、一瞬にして弟の命を無駄に危機に晒す兄になってしまったのです。
前田利長が、なんとか暗殺計画の嫌疑を晴らすことができたからよかったものの、そうでなく、状況が深刻化したら、弟・忠利の命はなかったことでしょう。

当時、現代とは異なり、結婚も政治であったことを考えると、忠隆の振る舞いというのは非常に悪手です。

忠隆はどうしてしまったのか、と忠興のみならず、周囲の人間は不審がったでしょう。

母の死に際しての振る舞いで、父、決断す。

さらに、細川家に激震が走ります。

1600年8月、忠興の正室である秀琳院(珠、細川ガラシャ)が石田三成の軍に襲われ、落命しました。忠隆の妻、千世はその前に籠に乗って前田家へ逃亡しています。

家康暗殺計画を含めた今回の政治情勢に一切関わりのない秀琳院(珠)のみが壮絶に死に、渦中にあるにも関わらず、忠隆の正室の千世は、姉の豪姫から派遣された籠に乗って実家に帰って生き延びました。

さすが千世は百万石のお姫様。優雅なことです

忠興からすれば、かなり、相当釈然としない感情が残ったのでしょう。
「お前が諸悪の根源だろ?」「何にも今の政治事情に関係ない俺の嫁があんなかたちで死んだってのに、何でお前がのびのびと輿に乗ってんの?」と怒り、「ていうかお前本当に忠隆の嫁にふさわしいのか?」「お嬢さん(悪い意味で)の嫁を迎えてしまったか……?」と悩んだかも。

正直にいえば、この案件、「ガラシャ好きが高じて息子の妻に『どうして生き残ったんだ!死ね!そして忠隆と離縁しろ!!』っていう忠興、ほんとヤンデレ」と私は思っていました。

ですが、こういう背景事情があると知ると、忠興が怒る理由は正当なものだし、感情としてごく自然なものだとわかります。

言い換えれば、弟を危機に晒し続けることを全く反省もせず、母の死に軽率な行動しかとらないおバカ妻を野放しにしておく男に成り下がってしまったのです。

忠隆は、関ヶ原後、忠興が宮津から豊後の小倉に転封になると同時に廃嫡されました。

よく、「千世が生き延びたから、愛妻の珠を失った忠興が嫉妬に狂って忠隆を廃嫡した」とシェイクスピアの悲劇のようにいわれますが、本書では忠隆は「政治的決断ができないタイプであったから」廃嫡されたと解釈されており、そちらの方が理にかなっています。

また、突発的な廃嫡決定ではなく、1600年12月ごろに廃嫡されたと考えられており、1599年に問題が起きてから一年も猶予があるので、忠興がかなり悩んで廃嫡したのがわかります。

本書では、忠興が忠利に書き送った「何事も慎しみが肝要だ、悪評が立ってしまえば取り返しがつかない」ということばは、忠隆を念頭に置いて書いているとされています。

つまり、忠隆はかなりの悪評に晒されていたのかもしれません。お家の危機に何もしないお方であると同時に、秀琳院の死にさいしての千世の軽率な行動に、細川家家臣も、世間の人々も、かなり頭にきていたのでしょう。

それは廃嫡せざるを得ない。

前田側も同じ思考をしていたのか、関ヶ原後、助けを求めてきた千世と忠隆を庇護しませんでした。

千世の兄の前田利長からすれば、彼もかなり危機的状況を乗り越えている最中なのに、細川家どころか「前田家の姫様は軽率で……」と評判の立ちかねない妹とその夫の行動に対する凄まじい失望感と怒りを抱いたものではないかと。
何の面下げて助けを求めにきた、と。

次兄・興秋という人

忠隆はそんなわけで、本人も非があったので廃嫡されたといってさしつかえありません。この問題は撤収!撤収!

細川興秋という忠利の次兄こそ、理不尽な人生といわざるをえません。

忠興、倒れる

実は、忠興は忠隆の廃嫡後、明確に後継者を決めていたわけではありませんでした。お嫁様の死のショックが強すぎて政治にやる気をなくし……、というより、今後の情勢を冷静に観察していたのだと思われます。

もし、このまま情勢が徳川優位に傾くようであれば、徳川と関係の深い忠利を後継にしない手はないからです。しかし、興秋は年長で、政治の表舞台に出はじめており、忠興や忠隆と行動を共にしていたせいで、参戦経験もあります。どこも治めていない忠利とは違い、中津城の城主でもあります。

そして、考え続け、考え続け、忠興は……
倒れました

1604年5月のことです。生死の淵を彷徨うほどの重病になりました。お嫁様のところへいきたくなったのかもしれません
後継廃嫡、正室腹の次男と三男、なかなか決まらない後継者、当主の病となれば、起きるのは一つ!!!

お家騒動じゃ!!!わーーーーーい!

同母兄弟が起こすお家騒動は、保元の乱にしろ、観応の擾乱にしろ、徳川家光と徳川忠長の争いにしろ、クソ泥沼になると決まってる!!!

 伊右衛門おくりびとなんてできない

しかし、残念なことに()、細川家はお家騒動を顕在化させることはありませんでした。

興秋派家臣と忠利派家臣との間で家中が非常にもめたことでしょうが、それは表面に出てくるようなものではありませんでした。興秋と忠利も内心は非常にドロドロした感情を抱いていたかもしれませんが、それを表に出すことはなかったようです。
とはいえ、時代劇や大河ドラマだったら、どうにも不利な忠利が兄の興秋に一服盛ってもおかしくはない状況です。ほら、お祖父ちゃん主人公の大河ドラマでやってたみたくさ、伊右衛門で……おくりびとを……

しかし、状況は大きく変わります。忠興が倒れ、危篤状態に陥った後、徳川家康が書状を出しました。

曰く、「忠興の意思により、忠利を後継者にする」と。

ほとんど死にかけている人からどう聴取したのか。たしかに家康の使者が危篤の忠興を見舞っていますが、そこで意思は確認できたのか、確認できたとしても、果たして忠興本人の正しい意思だったのか。しかも、家康の使者と忠利は同行しているのです。ねえ、それってさあ……。
忠利と徳川家康が共謀したのかなぁ……と時代劇厨の私は下種の勘繰りをしてしまったりします。

うん!!!そこを突っ込んではいけないですね!はい!

興秋は忠利の代わりに江戸へ人質に行くことになりました(この辺めちゃくちゃ……時代劇だったら忠利が一枚噛んでそうな芳醇な薫りがするぞ)。しかし、江戸へ赴く途中で出奔しました。

体調が奇跡的に回復した忠興は、興秋派の重臣をことごとく粛清しています。

細川家に伝わる名刀・歌仙兼定の持つ逸話に、「肥後熊本藩主であった細川忠利の施政がはかどらないのは側近たちが不忠であるからとして、隠居していた忠利の父である細川忠興が36人をこの刀で手打ちした(※ウィキペディアより)」という真偽不明の話がありますが、ここら辺の事情から生まれたのかもしれません。

そんなわけで忠利は祝!後継者になりました。

  

そんな中で③へ続きます。

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後継者に決まった忠利に、最強にして最悪の敵が現れます。
それが、何を隠そう、なかなか隠居しないうえもう一回生死をさまよう病気をしてやっと隠居した父・忠興。
こいつが!忠利の!!!政治を!!邪魔しに邪魔しまくる!!!元凶!!!
忠興本人は忠利を可愛がるので、余計に面倒です。

 

*1:妻どころか母もキリシタンで、なおかつ蒲生氏郷高山右近など、関係の深い大名もキリシタン大名です

*2:神社に付属して建てられた寺にいるお坊さん。権現とは、仏教の仏や菩薩が日本の神に仮の姿として現れること